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平安時代概観!約400年間続く混沌の平安時代を分かりやすくまとめてみる【実は6つの時期に区分できます】

更新日:2021年7月5日


約1世紀にわたって続く奈良時代が終わると、いよいよ平安時代が訪れます。



奈良時代まではなんとか理解できたけど、平安時代は苦手・・・という方は多く見られます。



その理由は2つあります。



一つ目が、その期間の長さです。



平安時代、とにかく馬鹿みたいに長いんです。



一般的によく言われる平安時代の始まりは「鳴くよウグイス平安京」でおなじみの794年。桓武天皇による平安京への遷都の年です。



そこから鎌倉時代が始まるとされる12世紀の後半頃までが平安時代であるとされています。(いつから鎌倉時代と捉えるのかということに関しては1180年説や1185年説、1192年説など諸説あるので断定はできませんが、いずれにしても少なくとも12世紀後半には鎌倉時代に突入と考えていいでしょう。)

こうして具体的な数字を見てもらうとわかりやすいですね。そうです、平安時代、シンプルにめちゃくちゃに長い。約400年間も続く時代だからこそ、勉強しているうちに訳が分からなくなりがちなんですね。



さらに、平安時代が理解しにくい理由は、ただ長いからだけではありません。



2つ目の理由として挙げられるのは、平安時代の「混沌さ」です。



ある時期には天皇が政治をしたり、またある時期には藤原氏が実権を握ったり、反乱があちこちで発生したり、果てには武士が政界に進出したり・・・



そう、もうそれはそれはカオスな時代なんです!!



一言で「平安時代」といっても、時期ごとに全く性格が異なるのですね。



馬鹿みたいに長い上に数十年単位で全く違った様相の「時期」が現れる、非常に混沌とした時代。それが平安時代の特徴なのです。



以上のことから、平安時代を学ぶ上で重要な心構えが見えてきます。



【平安時代という「時代」を一つのまとまりとして捉えることなく、いくつかの「時期」に分けて、それぞれの特徴を個別に理解していく】。



平安時代を学んでいくにあたって、このことを頭の片隅にちらっとでも置いていただけるだけで、その理解はきっとよりスムーズなものになるでしょう。



今回の記事は、平安時代の概観をまとめた内容となっています。



平安時代の大きな流れをつかむ、ささやかな一助になれば幸いです。



目次

1.平安時代‘‘6つの‘‘時期区分

2.①律令制再建の努力の時期

3.②藤原摂関家の台頭の時期

4.③三天皇による治世の時期

5.④藤原摂関家の全盛の時期

6.⑤上皇主導の院政展開時期

7.⑥はげしい源平合戦の時期





 

1.平安時代‘‘6つの‘‘時期区分

 

では、平安時代はいくつの「時期」に区分されるのか。



これはもう人によってさまざまかもしれませんが、自分は次のように区分することを推奨します。黒板をご覧ください。



以上6つです。



細かくしようとすればいくらでも細かくなりますが、受験勉強という観点から見れば、この区分数で十分でしょう。



今回は平安時代のイントロダクションなので、一つ一つの時期について細かくは解説しませんが、一つ一つかるーく触れていきたいと思います。





 

2.①律令制再建の努力の時期

 

1つ目の時期は天皇による律令制再建の時期です。



桓武天皇嵯峨天皇が活躍した時代にあたりますので、具体的には794年~9世紀前半を指しています。



光仁天皇にの即位に伴い、天武系皇室は断絶し、約1世紀ぶりに天智系皇室が復活しました。



光仁天皇の息子である桓武天皇は、この皇統交代を、中国の王朝交代と同様のものとして考えていたと言われてます。



それ故に、‘‘新王朝‘‘としての意識を強く持っていた桓武天皇は、奈良の平城京を捨て、心機一転して新たな都への遷都を行ったほか、中華思想に基づいて、東北地方の本格的な支配を確立するべく蝦夷の征討を行ったのでした。



奈良時代は、農民に対して重い負担をかけすぎたために公地公民制が崩壊し、律令制に動揺が走った時代であります。



その反省を受け桓武天皇は、雑徭の半減や公出挙利稲の軽減, 班田の見直しなど農民負担の軽減を図ったほか、勘解由使を設置して地方政治監督を強化するなど、現実に即した律令制の再建を目指して諸改革を実行していきました。






平城天皇の後に即位した嵯峨天皇も、基本的には桓武天皇の政治姿勢を継承します。



薬子の変を平定して政権を安定させることに成功した嵯峨天皇は、桓武天皇が再建した律令制の補強に努めました。



具体的には、検非違使の設置や法典の整備などに着手していきます。



このようにこの時代は、2天皇によって積極的な改革が実行された時期でありました。



律令制再建の努力は一定の効果を見せましたが、しかし抜本的な改革にはつながらず、結局またずるずると弛緩していき、結局10世紀半ばには律令制は実質的に崩壊してしまいます。




 

3.②藤原摂関家の台頭の時期

 

2つ目の時期は、藤原摂関家台頭の時期でございます。



藤原冬嗣良房基経が活躍した時代ですので、具体的には、冬嗣が活躍した9世紀前半から基経が死去する891年までを指しています。



810年に勃発した薬子の変を処理するにあたって、嵯峨天皇の秘書的なポジションとして蔵人所が設置されました。



そして、蔵人所の長官である蔵人頭に藤原冬嗣(北家)が任命されたことを契機として、以後藤原氏北家が台頭していくことととなります。



藤原氏北家は、自分の娘や妹を天皇の妻にすることで自らは次期天皇の外祖父となる、いわゆる外戚政策を積極的に実施しました。



それにより、次期天皇の摂政関白となることで、政治の実権を握ることができたのです。



また、藤原氏北家はその台頭の過程で、他のライバルを徹底的に排除していきます。



いわゆる他氏排斥と呼ばれる運動ですね。



他氏排斥事件の典型的な例である、承和の変応天門の変阿衡の紛議と呼ばれる事件が発生したのもこの時期です。



これにより、藤原氏北家は朝廷の中でも絶対的な権力を確立していきます。



しかしながら891年に基経が死去した後、藤原氏の台頭を嫌った時の天皇宇多天皇は、摂政・関白を置かず自ら親政を展開したために、摂関政治は中断期間を迎えます。




 

4.③三天皇による治世の時期

 

こうして再び、天皇が政治の実権を握る時期が到来します。いわゆる「天皇親政」が行われた時期です。



ここで行われた親政とは、宇多天皇による「寛平の治」醍醐天皇による「延喜の治」村上天皇による「天暦の治」ですね。



(なお、醍醐天皇のあと、村上天皇の前には朱雀天皇という天皇がいましたが、この天皇のもとでは一時的に摂関が置かれ、藤原忠平が実権を掌握しました。)



具体的には、基経が死去して宇多天皇の親政が始まったとされる891年頃から、村上天皇が崩御する10世紀半ばまでの時期のことを指しています。



この時期には天皇親政のもと、遣唐使が廃止されたり、格式の編纂が行われたり、徴税賦課方式が転換されたりと、次々と諸改革が実行されました。



また一方で、承平・天慶の乱という武士による地方反乱が発生して、朝廷の地方支配の動揺が露呈したのもこの時期です。



さらに、唐が滅亡して宋が成立したり、新羅が滅亡して高麗が成立したり、さらに日本と仲良しであった渤海が滅亡したりと、東アジアにおいて王朝交代が相次いだのもこの時期です。



そんなに長くはない時期区分ですが、かなり内容が盛沢山ですのでちゃんとした理解が要されます。







 

5.④藤原摂関家の全盛の時期

 

村上天皇による天暦の治が終わり、冷泉天皇が新たに即位すると、再び摂関政治の時期が到来します。



969年に発生した安和の変をもって藤原氏北家による他氏排斥運動は終わりを迎えるのですが、以後はほぼ摂関常置体制となり、続いては藤原氏北家内部のトップ争い――いわゆる‘‘氏の長者‘‘をめぐる時期が訪れます。



そして兼通(兄)VS 兼家(弟)道隆(兄)VS 道家(弟)道長(叔父)VS 伊周(甥)による ‘‘氏の長者‘‘ 争いを経て、藤原摂関家=藤原氏北家は道長とその息子頼通のもとで全盛期を迎えるのですね。藤原氏が最もイケイケの時代です。



「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という道長の有名な歌が詠まれたのもこの時期です。



「平安時代」と聞いたときに多くの方がイメージされるような、平安貴族が太平の世を謳歌する華やかな時期でございます。



しかし、藤原氏の栄華もそう長くは続きませんでした。



頼通もこれまで藤原氏北家が行ってきたように外戚政策を進めるべく、自分の娘を天皇に嫁がせてきたのですが、ついに皇子はうまれず、天皇家との外戚関係を構築することに失敗してしまったのです。



1068年には頼通に代わって、弟の教通が関白となりましたが、摂関家を外戚としない後三条天皇は「天皇親政」を行い、藤原氏の抑圧政策を始めました。



「天皇の外戚」という立場であるからこそ実権を握ることができた摂関政治は、こうしてあっさり終わりを迎えることになるのです。




 

6.⑤上皇主導の院政展開の時期

 

こうして、いわゆる後三条親政」と呼ばれる天皇親政が始まります。



後三条天皇は大江匡房など、摂関家にとらわれない優秀な人材登用を積極的に行い、政権を摂関家から完全に独立させました。



さらに後三条天皇は早期に白河天皇に譲位することで、皇統をも摂関家から独立させるという徹底ぶりを見せています。



こうして藤原氏主導で行われた摂関政治は完全に挫折してしまいました。



いってみれば、後三条天皇による親政が行われた数年間が、院政期の準備期間なのですね。



白河天皇もしばらくは、父である後三条天皇と同じように親政を続けていましたが、やがて息子の堀河天皇に自ら位を譲ります。



しかし、白河上皇は譲位したのちも、上皇として政治の実権を握り続けました。



1086年、いわゆる「院政」の始まりです。



院政は律令の制度の枠にとらわれることなく、上皇が絶対的な権力をふるった私的な専制体制でしたが、



よくこの院政と、太政官制という律令の枠内で行われた摂関政治を比較させるような問題がよく出題されます。学習する上でも注意が必要なポイントです。



院政は順番に3人の上皇、白河上皇鳥羽上皇後白河上皇によって推進されていきました。



院政期にはちょうど同じ頃、白河上皇の北面の武士として平正盛(清盛の祖父)が信任を得たことをきっかけに、伊勢平氏の台頭が始まります。



伊勢平氏は武力を用いることで院と結びつき、貴族としての身分を与えられて自ら国政に食い込むようになりました。



そして保元の乱平治の乱を経て、1167年,ついに平清盛が武家として初めて太政大臣という位を与えられ、平氏政権を確立します。



膨大な経済基盤と強固な政治基盤を持つ清盛には、さすがの上皇もかないません。



その後「鹿ケ谷事件(鹿ケ谷の陰謀)」と呼ばれる事件の発生により、清盛との対立が決定的となった後白河法皇(上皇)は、その後清盛によって幽閉されてしまい、完全に身動きが取れない状況に追いやられてしまいます。院政も停止させられました。



清盛が政治の実権を完全に掌握し、清盛による実質的な独裁体制がスタートするのです。



こうして、上皇は存在すれども実権を握ることはできなくなり、院政は終わりを迎えました。



後三条親政が行われはじめた1068年から、平清盛の独裁が始まる12世紀半ば頃までを指すのがこの時期でございます。




 

7.⑥はげしい源平合戦の時期

 

続いては最後の時期です。



具体的には、清盛の独裁政権に対する反抗が活発化し、治承・寿永の乱が発生する12世紀末期の時期を指しています。



さて、後白河法皇(上皇)の院政を停止し、独裁体制を敷くことに成功した平清盛ですが、その栄華も長くは続きませんでした。



平氏の強引な独裁政治の裏で、反平氏の動きがさらに活発化していったのです。



そしてついに1180年、後白河法皇の子であった以仁王が、打倒平氏政権を掲げた挙兵を呼びかける令旨を諸国の源氏に送り、



これをきっかけにして各地で平氏政権に対する反乱が勃発します。



1180年から85年までの約6年間にわたる、「治承・寿永の乱(源平合戦)」の発生です。



実は、この源平合戦自体もかなり混沌した戦いで、完全に理解するのは非常に難しいものであります。



単なる「源氏vs平氏」の戦いではなく、細かくすると「源頼朝vs源義仲vs平氏」の勢力争いへと分解されるんですね。



さらにそこに、頼朝に「日本一の大天狗」とまで言わしめた権謀術数の天才・後白河上皇(法皇)が、次々とそれぞれ3人の味方になったり敵になったりとその立場をコロコロと変えるので、これがまたこの時期のややこしさを助長します。



ここも一つ一つ丁寧な理解が試される、平安時代最後にして最大の混沌ポイントです。



混沌極める治承・寿永の乱も、1185年 壇ノ浦の戦いにて、ついに終わりを迎えます。



この戦いで平氏は滅亡し、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれることとなりました。



長かった平安時代の400年もついに終焉です。



本格的な武士の時代-鎌倉時代の到来でございます。





 
いかがでしたか?

さて、以上が混沌の平安時代400年間の概観です。



長い・・・大変そう・・・そういった不安を感じた方も多いかもしれません。



でも心配はありません!たしかに長く混沌とした平安時代ですが、これまでに述べてきた通り、それぞれの時期ごとに際立った特徴があるので、その特徴をしっかりと押さえつつ一つ一つ理解していけば案外するっと呑み込めます!



理解に詰まった時にはこの記事を見返して、概観を掴みなおしましょう。



さて、長い長い平安時代のイントロダクションもこれにて終了です。



今後は今まで以上に丁寧な復習が求められます。頑張って学習を進めていきましょう!


















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