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平安時代概観!約400年間続く混沌の平安時代を分かりやすくまとめてみる【実は6つの時期に区分できます】

更新日:7月5日


約1世紀にわたって続く奈良時代が終わると、いよいよ平安時代が訪れます。



奈良時代まではなんとか理解できたけど、平安時代は苦手・・・という方は多く見られます。



その理由は2つあります。



一つ目が、その期間の長さです。



平安時代、とにかく馬鹿みたいに長いんです。



一般的によく言われる平安時代の始まりは「鳴くよウグイス平安京」でおなじみの794年。桓武天皇による平安京への遷都の年です。



そこから鎌倉時代が始まるとされる12世紀の後半頃までが平安時代であるとされています。(いつから鎌倉時代と捉えるのかということに関しては1180年説や1185年説、1192年説など諸説あるので断定はできませんが、いずれにしても少なくとも12世紀後半には鎌倉時代に突入と考えていいでしょう。)

こうして具体的な数字を見てもらうとわかりやすいですね。そうです、平安時代、シンプルにめちゃくちゃに長い。約400年間も続く時代だからこそ、勉強しているうちに訳が分からなくなりがちなんですね。



さらに、平安時代が理解しにくい理由は、ただ長いからだけではありません。



2つ目の理由として挙げられるのは、平安時代の「混沌さ」です。



ある時期には天皇が政治をしたり、またある時期には藤原氏が実権を握ったり、反乱があちこちで発生したり、果てには武士が政界に進出したり・・・



そう、もうそれはそれはカオスな時代なんです!!



一言で「平安時代」といっても、時期ごとに全く性格が異なるのですね。



馬鹿みたいに長い上に数十年単位で全く違った様相の「時期」が現れる、非常に混沌とした時代。それが平安時代の特徴なのです。



以上のことから、平安時代を学ぶ上で重要な心構えが見えてきます。



【平安時代という「時代」を一つのまとまりとして捉えることなく、いくつかの「時期」に分けて、それぞれの特徴を個別に理解していく】。



平安時代を学んでいくにあたって、このことを頭の片隅にちらっとでも置いていただけるだけで、その理解はきっとよりスムーズなものになるでしょう。



今回の記事は、平安時代の概観をまとめた内容となっています。



平安時代の大きな流れをつかむ、ささやかな一助になれば幸いです。



目次

1.平安時代‘‘6つの‘‘時期区分

2.①律令制再建の努力の時期

3.②藤原摂関家の台頭の時期

4.③三天皇による治世の時期

5.④藤原摂関家の全盛の時期

6.⑤上皇主導の院政展開時期

7.⑥はげしい源平合戦の時期





1.平安時代‘‘6つの‘‘時期区分

では、平安時代はいくつの「時期」に区分されるのか。



これはもう人によってさまざまかもしれませんが、自分は次のように区分することを推奨します。黒板をご覧ください。



以上6つです。



細かくしようとすればいくらでも細かくなりますが、受験勉強という観点から見れば、この区分数で十分でしょう。



今回は平安時代のイントロダクションなので、一つ一つの時期について細かくは解説しませんが、一つ一つかるーく触れていきたいと思います。





2.①律令制再建の努力の時期

1つ目の時期は天皇による律令制再建の時期です。



桓武天皇嵯峨天皇が活躍した時代にあたりますので、具体的には794年~9世紀前半を指しています。



光仁天皇にの即位に伴い、天武系皇室は断絶し、約1世紀ぶりに天智系皇室が復活しました。



光仁天皇の息子である桓武天皇は、この皇統交代を、中国の王朝交代と同様のものとして考えていたと言われてます。



それ故に、‘‘新王朝‘‘としての意識を強く持っていた桓武天皇は、奈良の平城京を捨て、心機一転して新たな都への遷都を行ったほか、中華思想に基づいて、東北地方の本格的な支配を確立するべく蝦夷の征討を行ったのでした。



奈良時代は、農民に対して重い負担をかけすぎたために公地公民制が崩壊し、律令制に動揺が走った時代であります。



その反省を受け桓武天皇は、雑徭の半減や公出挙利稲の軽減, 班田の見直しなど農民負担の軽減を図ったほか、勘解由使を設置して地方政治監督を強化するなど、現実に即した律令制の再建を目指して諸改革を実行していきました。






平城天皇の後に即位した嵯峨天皇も、基本的には桓武天皇の政治姿勢を継承します。



薬子の変を平定して政権を安定させることに成功した嵯峨天皇は、桓武天皇が再建した律令制の補強に努めました。



具体的には、検非違使の設置や法典の整備などに着手していきます。



このようにこの時代は、2天皇によって積極的な改革が実行された時期でありました。



律令制再建の努力は一定の効果を見せましたが、しかし抜本的な改革にはつながらず、結局またずるずると弛緩していき、結局10世紀半ばには律令制は実質的に崩壊してしまいます。




3.②藤原摂関家の台頭の時期

2つ目の時期は、藤原摂関家台頭の時期でございます。



藤原冬嗣良房基経が活躍した時代ですので、具体的には、冬嗣が活躍した9世紀前半から基経が死去する891年までを指しています。



810年に勃発した薬子の変を処理するにあたって、嵯峨天皇の秘書的なポジションとして蔵人所が設置されました。



そして、蔵人所の長官である蔵人頭に藤原冬嗣(北家)が任命されたことを契機として、以後藤原氏北家が台頭していくことととなります。



藤原氏北家は、自分の娘や妹を天皇の妻にすることで自らは次期天皇の外祖父となる、いわゆる外戚政策を積極的に実施しました。