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桓武天皇が遷都先を「京都」に選んだ理由は?【理由を解説】

更新日:2021年7月5日







いよいよ奈良時代が終わり、平安時代が訪れます。



長い長い400年間の始まりです。平安時代は大変混沌の時代ですので、この時代を苦手に思われる方も少なくありません。



平安時代を大きく概観した記事については、また別のをご用意したので、ぜひそちらをご覧ください。



本記事のテーマは「遷都」です。



桓武天皇は「なぜ」遷都を行ったのかということに関しては、ご存じの方も多いかと思われます。



しかし、その遷都の先が「なぜ京都」であったのかということに関してまで知っている方は、意外と少ないのではないでしょうか。



今回は、そもそも桓武天皇はなぜ遷都を行ったのかをまとめるとともに、桓武天皇が選んだ遷都先が京都であった理由まで、ちょっと深く掘り下げて解説していきたいと思います!



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目次―

1.まずは奈良時代後期の軽い復習から

2.遷都の理由① ‘‘新王朝‘‘天智系皇室の威厳を見せつける

3.遷都の理由② 奈良仏教勢力の政治介入を排除

4.京都である理由① 水陸交通の利便性を追求

5.京都である理由② 秦氏の財力を期待





 

1. まずは奈良時代晩期の軽い復習から

 

さて、まずは軽ーく復習から。



前回までに述べた通り、奈良時代は激しい権力闘争が繰り返され、政権担当者がコロコロと変わっていく混沌の時代でした。



政権を担当した7人の名前と、ともに政治を運営した同じく7人の天皇の名前も、簡単に復習しておきましょう。

4人の藤原に3人が挟まれているのでしたね。



本記事で復習するのは道鏡以降です。



奈良時代晩期、女性天皇であった称徳天皇の寵愛を受けた道鏡という名のお坊さんが現れて、政権を掌握しました。



道鏡はいわゆる ‘‘南都六宗‘‘ の一つ、法相宗の僧侶でした。奈良仏教ですね。



もちろん、たとえ政権を握ったのがお坊さんであったとしても、徳に溢れた善政を行ってくれればそれでよかったのですが、そうはいきませんでした。



絶大な権力を得た道鏡は、仏教を中心とした強硬的な政治を行ってしまったのです。



朝廷の要職も道鏡と縁のある人物が占めるようになり、権力と欲にまみれた朝廷政治は大きく腐敗してしまいました。



孝謙上皇が重祚して即位した称徳天皇が絶大な権力を持っていたために、その寵愛を受けていた道鏡はめちゃくちゃな政治を行うことができたわけですね。



ところが、その全盛もあっさり終わりを迎えてしまいます。きっかけは宇佐八幡宮信託事件です。



この事件ののちに、道鏡の権勢は徐々に失速し、後ろ盾であった称徳天皇が崩御したことに伴って完全に失脚してしまいました。



その後道鏡は下野国の薬師寺という寺に左遷され、そこで生涯を終えたとされています。






さて、称徳天皇の死後、藤川百川らは次の天皇候補として白壁王という名の男を擁立し、これを天皇とすることに成功します。



光仁天皇の誕生です。



この天皇の即位は日本の歴史において大きなターニングポイントとなります。



天武系の皇統に代わり、天智系の皇統が復活した」。ここ、すごく重要です。








 

遷都の理由① ‘‘新王朝‘‘天智系皇室の威厳を見せつける

 

さて、天武系の皇統に代わり、天智系の皇統が復活したという事実を、桓武天皇は非常に重要視しました。



桓武天皇は、天武系皇室から天智系皇室へのこの皇統交代を、中国の王朝交代と同義のものとして捉えていたと言われています。



桓武天皇の‘‘新王朝‘‘意識は、785年に「郊祀」と呼ばれる一事業を執り行ったことにも表れています。



郊祀とは、中国の皇帝が行っていた、その王朝を築いた最初の皇帝を始祖として祭る儀式のことです。



桓武天皇は父である光仁天皇を、あたかも”新王朝”の始祖であるかのように祭り、‘‘新王朝‘‘の成立とその正当性を宣言しようとたのでした。



さて、それほどまでに‘‘新王朝‘‘意識を強くもつ桓武天皇のことですから、旧王朝=天武系皇統の天皇の築いた京は正直あまり使いたくないでしょう。



そして、大変な労働力・経済力を伴う遷都事業を敢行することで、‘‘新王朝‘‘としての威厳を見せつけることもできます。



このような背景もあり、桓武天皇は心機一転、新たな都への遷都を決めたのでした。



(別の階にて詳しくお話ししますが、‘‘新王朝‘‘として新たな日本を形成していこうとする桓武天皇の意識は、東北への支配拡大を意図した蝦夷征討諸改革による律令制の再建にも見て取れます。)





 

遷都の理由② 奈良仏教勢力の政治介入を排除

 

また、先に述べた通り、奈良時代晩期の政治はお坊さんにめちゃくちゃにされたのでした。



それ以前にも、例えば道鏡より前の時代には、熱狂的な仏教信者であった聖武天皇が大規模な造寺造仏を繰り返し、そのために朝廷財政は圧迫され民衆も疲弊してしまったという黒歴史があります。



言い換えれば奈良時代後半は奈良仏教に振り回された時代であったのですね。



おそらく朝廷は仏教勢力相手にだいぶ懲りたのでしょう。



もうこんなことが二度と起こらないように、すなわち奈良仏教勢力が政治に介入することを防ぐべく、いまいましい奈良の仏教勢力をそのまま平城京へ置き去りにしてしまおうと考えたのです。



今の時代の考え方で言うと、政教分離を図ったのですね。



その証拠に、ただ置き去りにするのみならず、桓武天皇は奈良仏教たちに対して、京都への新規寺院移転まで禁止しているという徹底ぶりを見せています。



もっと受験的な説明をするのであれば、遷都の理由の一つは、「奈良仏教勢力による政治への介入を防ぎ、政治の刷新を図ろうとしたから」であると言えます。




 

京都である理由① 水陸交通の利便性を追求

 

さあ、ここからは遷都先がなぜ「京都」であったのかということについてお話しします。


一つ目のカギは、京都の地理的条件です。



奈良と京都は地理的に何が違うのか。



奈良県平城京付近と、京都府長岡京・平安京付近を地図上で比べてみるとわかりやすいのですが、その相違点は河川の有無です。



奈良平城京の周りには大きな河川・水路がほとんど存在しないのに対し、いわゆる‘‘淀川水系‘‘にあたる京都には桂川、鴨川、宇治川、木津川、淀川など様々な河川が存在しています。



京都を流れる桂川、鴨川、宇治川、木津川などの河川が合流することで、最終的に淀川になり、その淀川は大坂の難波津の傍に流れ着きます。



すなわち、京都からこれらの河川を通って船で難波津まで出向き、そこから、瀬戸内海を通って北九州の大宰府へと進んだり、さらには日本各地・外国へと出かけていくことができたのです。



反対に、日本の各地からこの河川をさかのぼっていくことで、船で内陸部の京都まで移動することもできました。



京都は日本各地・外国からのアクセスが非常に良かったのですね。



また、人の輸送のみならず、物資の運搬という面を考えた場合にも、河川の存在は大きな効果を発揮します。



大きな河川が通る京都へは、全国から重い大量の物資を船で簡単に運ぶことができました。



(一方で、先ほど述べた通り平城京には大きな水路はなく、物資の運搬はもっぱら陸路に頼っていました。これは非常に非効率です。大量の重い物資をなるべく少ない回数で運ぶという効率面を考えた場合、やはり大きなアドバンテージを発揮するのは水運です。)



このように、京都から&京都までの人の輸送・物資の運搬という面を考えた場合、河川による水上交通は大きな利便性を発揮したのです。







では、京都の陸上交通に関してはどうでしょうか。



京都の位置する山背国(山城国)は、七道のうちの北陸道・東山道・山陰道と隣接しています。



さらには、七道のうち最も重視されていたとされる山陽道へも、2国をまたがなければ行けない平城京とは異なり、隣の摂津国を通ってすぐに行くことができました。



陸上交通の便から考えても、奈良よりも京都の方が圧倒的に都合がよかったわけです。



大量の兵力を東北派遣しなければならない「蝦夷の征討」を行うことを考えても、奈良よりも京都の方が好都合でしょう。



まとめると、以上のように、京都は水陸ともに交通の便が圧倒的に良い。



すなわち、人の輸送・物資の運搬に好都合であったことが、桓武天皇が遷都先を「京都」に選んだ一つ目のポイントです。






 

京都である理由② 渡来系氏族「秦氏」の財力を期待

 

桓武天皇が遷都先を「京都」に選んだ理由として、難関大向けのかなり発展的な内容ですがもう一つ、秦氏の存在が挙げられます。



秦氏は、応神天皇の時代に百済から日本にやってきてそのまま帰化したとされる弓月君を祖先とする、有力な渡来系氏族です。



そして、京都はもともと、秦氏の氏寺である広隆寺(太秦寺)があることからもわかるように、長らく秦氏が基盤としてきた土地でした。






桓武天皇は、この秦氏と深いつながりを持っていたと言われています。



その背景は詳しくは分かりませんが、桓武天皇が、母親(高野新笠と呼ばれる女性)が渡来人であるという特殊な血筋を持っているということにも関係しているようです。



奈良時代以来、朝廷の財政が慢性的に悪化していたことは、先に述べた通りです。



そのため、桓武天皇は秦氏の財力を当てにしようとする意図があって、遷都先を京都に選んだのではないかと言われています。(また、一説には、実際の京都への遷都費用を負担したのは秦氏であるとも言われています。)



自らとの関係の深い秦氏の財力を当てにしていた」。



これが桓武天皇が遷都先を京都に選んだもう一つの背景です。





 
いかがでしたか?


今回は桓武天皇はなぜ遷都を行ったのか、さらにもう少し深く掘り下げて、遷都先がなぜ「京都」であったのかということについてお話ししました。


少々難しいとっつきにくいテーマであったとは思われますが、論述において非常に差のつくテーマですので、ぜひ学習を進めてもらえれば幸いです。


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