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【諱について解説!】かつて日本には他人を本名で呼ぶことを避ける文化がありました。【紫式部や新井白石は本名でなかった!?】

更新日:7月11日


日本史を学習していく際、一定数の受験生たちは「史料問題」の対策に取り組んでいきます。



日本史という受験科目の中で、論述とともに最難関とされている問題形式が、この史料問題です。



史料問題の解きにくさを決定づける要因として、歴史的仮名遣いや古文調が広く用いられていること、年代が特定しづらいこと、など多くの要素を上げることができますが、



それ以上の難しいポイントが、問題中に出てくる固有名詞――特に人名――が普段我々が教科書等で習うものと異なっていることが多い、ということにあります。



史料問題の原文の中で、歴史上の人物の本名フルネームが記されていることはめったにありません。



一体なぜでしょうか。



現代にはあまりない感覚ですが、少なくとも明治時代頃までの昔の日本には、他人の本名をむやみやたらに呼ぶことを避ける風習があったと言われています。



他人の本名を呼ぶことは、極めて無礼であるとされていたのです。



史料問題中における人物の名前表記に本名が少ないことは、ここに由来しています。



ということで、今回の記事では、この【他人の本名を呼ぶことを避ける文化】について解説していきます!



歴史上の人物の「名前」について、新たな知見を得ること間違いなしです。




目次ー

1.本名で呼ぶことを避ける文化。「諱(いみな)」とは?

2.諱を避けるべく、個人の名前はどう呼んだ?

3.女性の諱も忌避された?





1.本名で呼ぶことを避ける文化。「諱(いみな)」とは?



現代にはあまりない感覚ですが、古代の日本には、高貴な人や死者のことを本名で呼ぶことを避ける文化がありました。



そこから転じて、やがて他人の生前の本名をむやみやたらに呼ぶことも避けられるようになったといいます。



馴染みのない言葉ですが、人物の本名のことを「諱(いみな)」と表現することがあります。



「諱」という漢字を訓読みすると「いむ」と読めるのですが、ここから分かるように、諱には「口に出すことをためらわれる」言葉であるという意味が含まれています。






では、一体どうして本名を呼んではいけないのでしょう。



「諱」の文化は、「人物の実名とその人物の霊的な人格が結びついている」という古代中国に端を発する宗教的な思想に基づいています。



それぞれの人物の本名=諱は、それぞれの人物の霊的な人格と結びついたものであり、その本名を口にするとその霊的な人格を操ってしまうと考えられていたのです。



だからこそ古代の日本では、本名=諱を呼ぶのは親や主君のみに許されることであり、それ以外の者が諱で呼びかけるのは極めて無礼であるとされていました。(なおどうやらこれは日本のみならず、東アジアや欧米の一部など、世界各地でみられる感覚であるそうです。)



諱を忌避するこの風習が、日本においていつから始めったのかは定かではありませんが、だいたい明治時代頃まで続いてきたとされています。





2.諱を避けるべく、個人の名前はどう呼んだ?


本名=諱を避けるという発想から、個人の名前は通称で呼ばれることになりました。



いわば個人のことを表現するために、ニックネームが用いられたのです。



そのニックネームの付けられ方として、代表的なものが官職名を用いたものでした。



応天門の変にて処罰された伴善男という人物がいますが、後の院政期に描かれた『伴大納言絵巻』の名称からもわかるように、彼は ‘‘伴大納言‘‘ という通称で呼ばれていました。



これは伴善男が大納言という官職に就いていたことに由来しています。



中国風の官名での呼び方で、太政大臣を「相国」と呼ぶことがあります。



ここから、1167年に武家として初めて太政大臣という高位にまで上り詰めた平清盛には ‘‘平相国‘‘ などという通称がありました。



平安時代以降、貴人に対しては、その貴人が居住していた邸宅の所在地名やゆかりのある建物の名前などに基づいて付けられた通称で呼ぶことも多かったと言います。



たとえば、平安時代に栄華を築き上げた摂関家・藤原氏北家ですが、その中の藤原兼家はその邸宅の名称をとって ‘‘東三条殿‘‘ と呼ばれていました。



兼家の息子である道長法成寺を建てたことは、文化史において非常に重要な事項です。



この寺のことを別名「御堂」と呼ぶことから、道長は ‘‘御堂‘‘ という通称を持っていました。



道長の日記『御堂関白記』の名称はここからきています。



さらにその道長の息子である頼通も、京都府の南の宇治の地に平等院を建てましたが、この建物が別名「宇治殿」と呼ばれていたことから、頼通にも ‘‘宇治殿‘‘ の通称がありました。



平清盛が‘‘平相国‘‘という通称を持っていたことは先に述べた通りですが、京都の六波羅に平家の邸宅があったことから、清盛は同様に ‘‘六波羅殿‘‘ という通称も持っていたといいます。







近世頃に入っても、諱を避けるという感覚は継続されます。



大坂の陣への契機となる「方広寺鐘名事件」では、豊臣氏が造った方広寺の梵鐘に彫られた『国家安康、君臣豊楽』の部分に徳川方が言いがかりをつけたと言われています。



これは『君臣豊楽』の部分で豊臣家の繁栄を祈願している一方、『国家安康』の部分では「家康」の名前を分断していることから、「家康の諱を侵害している!」として豊臣側に難癖をつけたのです。



生類憐みの令」を出して特に犬を大事にすることに拘ったことから‘‘犬公方‘‘などと揶揄されてしまった将軍として有名な徳川綱吉は、同様に自分の娘のことも深く溺愛していたといいます。