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【論述対策】藤原氏北家が台頭・発展できたのはなぜか?その策略は?契機は?

更新日:7月12日




(画像は、左から藤原冬嗣・良房・基経)





さて、桓武天皇・嵯峨天皇による天皇が自ら改革を主導した時期が終わると、続いて訪れるのは【藤原摂関家台頭の時期―藤原氏北家による摂関政治の始まり】の時期です。



平安時代の6つの時期区分のうち、2つ目にあたる区分ですね。



具体的には、藤原冬嗣が活躍し始める9世紀の前半から、基経が亡くなる891年頃までを指しています。



平安時代の大まかな概観をまとめた記事はコチラから!

平安時代概観!約400年間続く混沌の平安時代を分かりやすくまとめてみる【実は6つの時期に区分できます】



特に大きな戦乱もなく、平安貴族たちが太平の世を謳歌する「THE平安時代」とも表現すべき時期が訪れるわけですが、その時期を学習する上で外すことができない事項が「藤原氏北家による摂関政治」です。



藤原氏北家はどのように台頭し、そして発展していったのでしょうか。



今回の記事では藤原氏北家の台頭の契機や、その発展の策略・過程、さらには簡単にですが摂関政治の特徴や仕組みについて、いま一度おさらいしたいと思います!



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【平安時代③ 嵯峨天皇による律令制の補強】

【平安時代④ 藤原北家の台頭と摂関政治の始まり】



目次―

1.藤原氏北家台頭の契機は?―冬嗣の蔵人頭任命―

2.北家が台頭・発展するべく採った策略は?

3.①外戚政策の実施

4.②他氏排斥運動の実施

5.③膨大な経済基盤の確立






1.藤原氏北家台頭の契機は?―冬嗣の蔵人頭任命



突然ですが、ここで質問です。



藤原氏北家の祖となる人物は一体誰でしょう。






答えは藤原房前(ふじわらのふささき)です。



飛鳥時代の末期から奈良時代の初期に活躍した藤原不比等の子には、4人有名な者がいます。



武智麻呂宇合麻呂房前の4兄弟です。



この4人は、奈良時代には政権を担当したことでも有名です。いわゆる ‘‘藤原四子‘‘ 政権ですね。



そして、この4兄弟はそれぞれ、武智麻呂が南家宇合が式家麻呂が京家房前が北家の祖でございます。



藤原氏北家の祖をさかのぼってみれば、北家が活躍した平安時代から1世紀近くも前の時代にたどり着くのですね。



余談ですが、藤原氏は、南家→式家→北家の順に活躍したと考えてもらって差し支えありません。



例えば、南家の人物には、同じく奈良時代に政権を担当した藤原仲麻呂などが居ます。



また、もう少し後の奈良時代後期には奈良政治史最後の政権担当者として式家の藤川百川が、さらに平安時代の初期――桓武天皇の時代――には同じく式家の種継緒嗣らが活躍しました。



そして、そこから先は北家の時代が到来します。



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授業ノート(PDF版)【奈良時代② 奈良時代の政治と権力闘争(1)】

授業ノート(PDF版)【奈良時代③ 奈良時代の政治と権力闘争(2)】

授業ノート(PDF版)【平安時代① 桓武天皇による律令制の再建】







藤原氏式家と北家の進退が決定的となったのは「薬子の変」です。



別名平城太上天皇の変とも呼ばれるこの政変は、平城上皇と謀って同上皇の重祚と平城京への遷都(還都)を実施しようとした藤原仲成薬子兄妹(式家)が、嵯峨天皇によって弾圧された事件のことを指しています。



結局、薬子が服独自殺し仲成も射殺され、重祚を完全に阻止された平城上皇が出家することで終わりを迎えたこの事件ですが、式家の中でも大きな勢力を持っていた仲成が死亡したことによって、結果的に藤原氏式家は没落へと向かうことになります。



一方、この政変には、大きな歴史的な意義がもう一つあります。



この政権を契機として、「蔵人所」が設置されたのです。



蔵人所とは、嵯峨天皇により設置された令外官であります。



蔵人所において、天皇の私的な詔勅や機密の文書などを扱った天皇の秘書的な存在として、蔵人と呼ばれる側近が活躍したのでした。



この令外官の設置のキッカケとなったのが、まさにこの「薬子の変」にあります。



様々な人物が関わる太政官政治の機構を通して詔勅を下すと、手続きが煩雑であるのみならず、軍事的な機密事項も漏洩する可能性が、やはりどうしても高くなってしまいます。



そのため、平城上皇側にそれらの秘密が漏れないようにするべく、側近を天皇の秘書的なポジションに抜擢し、政務を執り行わせたのが蔵人所の始まりでした。



蔵人所では数人の蔵人たちが天皇の側近として政務を行ったのですが、そのうちのトップ、すなわち蔵人所の長官である蔵人頭に任命されたのが藤原冬嗣だったのです。



嵯峨天皇に信任されて天皇の蔵人頭となった藤原冬嗣はめきめきと頭角を現し、この後要職を歴任していくようになります。



彼の活躍がその後の藤原氏北家の台頭の礎を築いたのです。



以上、薬子の変をきっかけとした、藤原氏式家の没落と北家の台頭についてまとめました。