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【論述対策】藤原氏北家が台頭・発展できたのはなぜか?その策略は?契機は?

更新日:2021年7月12日




(画像は、左から藤原冬嗣・良房・基経)





さて、桓武天皇・嵯峨天皇による天皇が自ら改革を主導した時期が終わると、続いて訪れるのは【藤原摂関家台頭の時期―藤原氏北家による摂関政治の始まり】の時期です。



平安時代の6つの時期区分のうち、2つ目にあたる区分ですね。



具体的には、藤原冬嗣が活躍し始める9世紀の前半から、基経が亡くなる891年頃までを指しています。



平安時代の大まかな概観をまとめた記事はコチラから!

平安時代概観!約400年間続く混沌の平安時代を分かりやすくまとめてみる【実は6つの時期に区分できます】



特に大きな戦乱もなく、平安貴族たちが太平の世を謳歌する「THE平安時代」とも表現すべき時期が訪れるわけですが、その時期を学習する上で外すことができない事項が「藤原氏北家による摂関政治」です。



藤原氏北家はどのように台頭し、そして発展していったのでしょうか。



今回の記事では藤原氏北家の台頭の契機や、その発展の策略・過程、さらには簡単にですが摂関政治の特徴や仕組みについて、いま一度おさらいしたいと思います!



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【平安時代③ 嵯峨天皇による律令制の補強】

【平安時代④ 藤原北家の台頭と摂関政治の始まり】



目次―

1.藤原氏北家台頭の契機は?―冬嗣の蔵人頭任命―

2.北家が台頭・発展するべく採った策略は?

3.①外戚政策の実施

4.②他氏排斥運動の実施

5.③膨大な経済基盤の確立






 

1.藤原氏北家台頭の契機は?―冬嗣の蔵人頭任命

 


突然ですが、ここで質問です。



藤原氏北家の祖となる人物は一体誰でしょう。






答えは藤原房前(ふじわらのふささき)です。



飛鳥時代の末期から奈良時代の初期に活躍した藤原不比等の子には、4人有名な者がいます。



武智麻呂宇合麻呂房前の4兄弟です。



この4人は、奈良時代には政権を担当したことでも有名です。いわゆる ‘‘藤原四子‘‘ 政権ですね。



そして、この4兄弟はそれぞれ、武智麻呂が南家宇合が式家麻呂が京家房前が北家の祖でございます。



藤原氏北家の祖をさかのぼってみれば、北家が活躍した平安時代から1世紀近くも前の時代にたどり着くのですね。



余談ですが、藤原氏は、南家→式家→北家の順に活躍したと考えてもらって差し支えありません。



例えば、南家の人物には、同じく奈良時代に政権を担当した藤原仲麻呂などが居ます。



また、もう少し後の奈良時代後期には奈良政治史最後の政権担当者として式家の藤川百川が、さらに平安時代の初期――桓武天皇の時代――には同じく式家の種継緒嗣らが活躍しました。



そして、そこから先は北家の時代が到来します。



⇓⇓⇓奈良時代についての政治史や緒嗣・百川について復習したい方はコチラ!

授業ノート(PDF版)【奈良時代② 奈良時代の政治と権力闘争(1)】

授業ノート(PDF版)【奈良時代③ 奈良時代の政治と権力闘争(2)】

授業ノート(PDF版)【平安時代① 桓武天皇による律令制の再建】







藤原氏式家と北家の進退が決定的となったのは「薬子の変」です。



別名平城太上天皇の変とも呼ばれるこの政変は、平城上皇と謀って同上皇の重祚と平城京への遷都(還都)を実施しようとした藤原仲成薬子兄妹(式家)が、嵯峨天皇によって弾圧された事件のことを指しています。



結局、薬子が服独自殺し仲成も射殺され、重祚を完全に阻止された平城上皇が出家することで終わりを迎えたこの事件ですが、式家の中でも大きな勢力を持っていた仲成が死亡したことによって、結果的に藤原氏式家は没落へと向かうことになります。



一方、この政変には、大きな歴史的な意義がもう一つあります。



この政権を契機として、「蔵人所」が設置されたのです。



蔵人所とは、嵯峨天皇により設置された令外官であります。



蔵人所において、天皇の私的な詔勅や機密の文書などを扱った天皇の秘書的な存在として、蔵人と呼ばれる側近が活躍したのでした。



この令外官の設置のキッカケとなったのが、まさにこの「薬子の変」にあります。



様々な人物が関わる太政官政治の機構を通して詔勅を下すと、手続きが煩雑であるのみならず、軍事的な機密事項も漏洩する可能性が、やはりどうしても高くなってしまいます。



そのため、平城上皇側にそれらの秘密が漏れないようにするべく、側近を天皇の秘書的なポジションに抜擢し、政務を執り行わせたのが蔵人所の始まりでした。



蔵人所では数人の蔵人たちが天皇の側近として政務を行ったのですが、そのうちのトップ、すなわち蔵人所の長官である蔵人頭に任命されたのが藤原冬嗣だったのです。



嵯峨天皇に信任されて天皇の蔵人頭となった藤原冬嗣はめきめきと頭角を現し、この後要職を歴任していくようになります。



彼の活躍がその後の藤原氏北家の台頭の礎を築いたのです。



以上、薬子の変をきっかけとした、藤原氏式家の没落と北家の台頭についてまとめました。



式家と北家の勢力が逆転しただけでなく、この後に藤原氏史上最大の栄華を築く北家が台頭する最初のキッカケとなったという点で、薬子の変は大きな歴史的意義を持っているのですね。







 

2.北家が台頭・発展するべく採った策略は?

 

さて、続いてのテーマは、記述問題のみならず論述問題においても頻出されるテーマでございます。



藤原氏北家がその栄華を築いていくために、いったいどのような策略を採っていたのでしょう。



ポイントは以下3つです。黒板をご覧ください。






藤原氏北家が台頭・発展できた理由、さらには摂関政治を行うことができた理由も、上記によるものです。



それでは、各ポイントについて、少しづつ触れていきましょう。




 

3.①外戚政策の実施

 

外戚政策摂関政治について、まずは簡単に触れていきます。



センターでも頻出である、基本的かつ非常に重要な歴史的事項ですね。



外戚政策とは、娘を天皇の后にし、生まれた皇子を次期天皇に据えることで、天皇の外祖父として摂政・関白の地位について政治の実権を握ろうとする政策のことを指しています。



藤原氏北家の人々は自分の娘を天皇に嫁がせて天皇家と外戚関係を構築し、そして後に生まれた皇子が次期天皇として即位すると、その天皇の外祖父という立場のもと摂政関白として「摂関政治」を行ったのでした。



なお、このような策略を行うことができたのには、古代から平安時代前期にあたる当時まで一般的に行われていた「妻問婚」と呼ばれる婚姻形態が背景にあります。



「外戚政策」は理解できているようで案外盲点となりがちな代表的なテーマです。

⇓⇓⇓確認の意味も込めて、以下の記事もぜひご覧ください!

【理由・仕組みを解説!】なぜ藤原氏は外戚政策を行うことで摂政・関白となれたのか?【ポイントは‘‘妻問婚‘‘】【サザエさんで考えろ!?】







関白・摂政という役職のもと、具体的に藤原氏北家は一体どのようにして権力を掌握したのでしょうか。



その答えは、摂政・関白に付随している「内覧」と呼ばれる機能にあります。



「内覧」とは、太政官から天皇に奏上されるべき文書を、その奏上前にあらかじめ内見することができる制度のことです。



「あらかじめ」という表現からも明らかなように、摂政や関白は天皇に先立って文書を見て情報を把握することができたのでした。



これにより、奏上前に摂関自らが自分たちにとって都合が悪くなりそうな奏上を棄却したり、さらには自ら政務を処置したり、場合によっては天皇に働きかけることも可能になり、

間接的に天皇や他の公卿たちを統制することができたのです。



「天皇の政治を補佐する」というのが摂政・関白のもともとの任務でしたが、この機能によって、摂政・関白は政治を補佐するどころか実質的に政治の実権を掌握することができたのでした。







 

4.②他氏排斥運動の実施

 

藤原氏北家台頭の策略として、もう一つ忘れてならない政治的なものが、「他氏排斥運動」です。



文字通り、「他」の「氏」を排斥していくという政策でございます。



藤原氏北家の人々は、自分たちに従わずに対立したり、発展の邪魔になる人物を、徹底的に排除していったのです。



具体的に排除されたのは、伴氏橘氏紀氏らでした。



教科書に記載されるような、藤原氏北家による代表的な他氏排斥運動は以下の5つです。



黒板をご覧ください。





他氏排斥を学習する上で大事なポイントは、「藤原氏の誰が」「誰を」「どのような理由で」排斥したのかを明確に押さえていくということにあります。



ここが曖昧になってしまっている状況では、試験で高得点を望むことは難しいと言ってもよいでしょう。



細かい内容については今回の記事では触れませんが、表にさっと目を通して軽く復習してもらえると幸いです。



なお、藤原氏北家による最後の他氏運動と言われるのが、969年に発生した「安和の変」と呼ばれるものです。



もう排斥する他氏のライバルがいなくなったために、今後北家内では、一族内でのトップ争い――いわゆる ‘‘氏の長者‘‘ 争いが展開されることとなります。



そして、



兼通[兄]VS兼家[弟]

道隆[兄]VS道兼[弟]

道長[叔父]VS伊周[甥]



によるトップをめぐる権力争いを経て、ついに道長・頼通親子のときに、藤原氏は全盛期を迎えるのでした。









 

5.膨大な経済基盤の確立

 

これまで述べてきた「外戚政策」「他氏排斥運動」はいずれも政治的なものでしたが、藤原氏北家の発展を支えてきた背景として、最後に経済的基盤にも追加で触れていきましょう。



まず、前提となる必要知識として「寄進地系荘園」について理解しなければなりません。



ごく簡単に述べます。



10世紀以降、有力農民は土地経営の規模を拡大・強化して開発領主として力をつけていったのですが、その後、徴税や私領の維持・拡大をめぐって開発領主と国司、さらには開発領主どうしの間で、抗争が頻発するようになります。



そのために、開発領主の中には、より権威のある者の保護を求めるべく、自らの土地を中下級貴族や寺社に対して名目上寄進する者が急増しました



これによって成立したのが、いわゆる「寄進地系荘園」と呼ばれる土地です。



⇓⇓⇓寄進地系荘園や荘園公領制についての分かりやすい説明はコチラ!

授業ノート(PDF版)【平安時代⑪ 荘園公領制の成立】






藤原氏北家はその台頭の過程で、高位高官を独占し、さらにはこの寄進地系荘園を大量に集積することに成功しました。



これにより、大規模な経済基盤が確立されたのです。



藤原摂関家が集積した大規模な荘園群は「殿下渡領」と呼ばれ、代々摂関も地位に就いた者の間で継承されていったといいます。



他者を圧倒するこの大規模な荘園群も、藤原氏北家の栄華を支えた一つの要因であると言えるでしょう。




 
いかがでしたか?

今回は藤原氏北家が台頭していくことができた理由やその策略について紹介しました。



自分の娘を政略結婚させたり、他の氏をおとしめて徹底的に排除したりと、今の時代にはなかなか考えられないようなことを行ってきたことがお分かりいただけたかと思います。



現代の感覚から考えると倫理観に欠けるような印象を抱くのかもしれませんが、ともすれば一つの小さな失敗が一族全体の没落に繋がってしまうこともある弱肉強食の平安の世では、農民のみならず貴族たちでも生きていくのに必死です。



個人の能力のみならず、人脈や権謀術数に長けた人物こそが大成できる世の中であったのです。



平安時代は太平の世を貴族たちが気ままに謳歌している――そんなイメージを抱きがちですが、そんな一見おおらかに暮らしているように見える貴族たちも、実は裏ではドロドロの政争に日々消耗したり、出世や跡継ぎ問題・娘の結婚問題などに頭を悩ませたりと、きっとそこまでのほほんとばかりしていられなかったのかもしれません。




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