
(画像は嵯峨天皇)
平安時代の初期に活躍した天皇として、桓武天皇の他にもう一人よく紹介されるのが嵯峨天皇です。
藤原種継暗殺事件に関与していたとして連座させられていた早良親王。
彼に代わって皇太子となっていた安殿親王と呼ばれる方が桓武天皇の死後に平城天皇として即位するのですが、彼はもともと病弱であり、病気の悪化を理由にすぐに弟に譲位してしまいます。
そこで新たに即位したのが嵯峨天皇でした。
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【理由を解説!】長岡京からすぐに平安京へと遷都されたのはなぜか?非業の死を遂げた早良親王の怨念?
と、せっかく即位したのはいいですが、しばらくの間、嵯峨天皇は政権をなかなか安定させられなかったといいます。
一体なぜでしょうか。
今回の記事では、嵯峨天皇の即位からその政権を安定させることができるまでの期間に何があったのかについて、詳しく紹介していきたいと思います!
ずばり、テーマは「薬子の変(平城太上天皇の変)」です!
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目次―
1.「薬子の変(平城太上天皇の変)」に至るまでの過程は?
2.薬子の変が発生!その内容は?
3.論述で頻出!薬子の変の歴史的意義について解説
1.「薬子の変(平城太上天皇の変)」に至るまでの過程は?
弟に続いて即位した嵯峨天皇ですが、初めのうちはなかなか政権が安定しませんでした。
なぜなら、病気を理由に自分に譲位をしたはずの平城上皇が、なんだか不穏な動きを見せていたからです。
平城上皇は譲位後、平城旧都へと移って当初は大人しくしていたのですが、どうやらしばらくした後に病気が治ってしまったといいます。
そんな平城上皇の様子を見て、「もう一度平城上皇を天皇にしよう!」――そう考えたのが藤原薬子という人物でした。
彼女は藤原氏式家の女性であったのですが、平城上皇がまだ天皇であったときから、深い寵愛を受けていたといいます。
中国唐の6代皇帝玄宗に召された女性に、楊貴妃(ようきひ)という非常に美しい方が居ますね。
エジプトのクレオパトラ、日本の小野小町とともに、世界三大美女に数えられる一人でございます。
楊貴妃のそのあまりの美しさにドはまりしてしまった玄宗は、その寵愛を楊貴妃一身にそそぐのみならず、楊氏一族をも高位へと列し、これによって玄宗からの寵愛受けた楊氏は大いに権勢をふるったといいます。
これと同じことが、平安初期の当時の日本でも起こっていたのです。
この薬子も楊貴妃と同じように、天皇(上皇)からの寵愛を以て国を動かそうとした女性として非常に有名な人物です。
実際、平城天皇からの寵愛をもとに、薬子はやがて国政にも参入するようになり、さらには妹である薬子を介してその兄である仲成も国政に関与するようになりました。
平城天皇からの寵愛をいいことに、薬子や仲成は思いのままにふるまっていたのです。
そのために、薬子らはもともと平城天皇の譲位には反対する立場であったといいます。
まあ当然と言えば当然でしょう。
平城上皇の譲位によって思いのままにふるまっていた自分たちの立場が危うくなってしまいます。
そればかりか、自分らにあまり縁のない新たな天皇が誕生することにより、薬子たちは式家の権勢が失墜してしまうと恐れたのでした。
以上に述べたような背景もあり、平城上皇の病気が治ったと分かった薬子らは、平城上皇に働きかけ、同上皇の皇位復活=重祚と平城京への還都を画策します。
「もう一度天皇になりたい」――平城上皇が本当にそのように感じていたのかはわかっていませんが、いずれにしても薬子らの意見を汲んだ平城上皇は嵯峨天皇という存在がいるのにもかかわらず、しばしば国政に参入するようになったのでした。
天照大神の子孫であるとされる天皇は、たとえ位を降りたからといえども、もちろん莫大な権威を有しているわけであります。
本来最高権力者とされているのは天皇ですが、上皇もそれと同等の権威を持っているとされていたのです。
トップクラスの権力者が2人もいるという異例の事態に、平安の世の政治は大きく混乱します。
いわば、まるで朝廷が2つあるかのような ‘‘二所朝廷‘‘ の状態になってしまったのです。
当然のことながら、嵯峨天皇と平城上皇の対立は徐々に深まっていきます。
嵯峨「お前はもう一度位を降りて俺に譲位しているんだから、国政に関与してくるのはおかしいだろ!」
平城「譲位したのは俺が病気だったからだ!その病気が治った以上、俺が再び皇位に戻るのは当然のことだろう!」
という両者の言い分のもと、一触即発の緊張感が徐々に高まっていったのです。
2.薬子の変が発生!その内容は?
そして810年、堪忍袋の緒が切れた嵯峨天皇は、ついに行動を起こしました。
キッカケは、平城上皇が平城京への還都の詔を出したことによります。
せっかく平安京へと遷都したばかりのさなか、再び平城京への遷都が宣言されたことはもちろん嵯峨天皇にとっても思いがけないことでしたが、嵯峨天皇は一応上皇の命令に従うふりをして、自分の信頼する側近である冬嗣や坂上田村麻呂らを、造営使として平城京に派遣します。
しかし、もともと遷都を拒否することを心に決めていた嵯峨天皇はその数日後には態度を一変し、当時最強の軍を率いていた坂上田村麻呂に命じて、上皇や薬子らをそのまま平城京内に抑え込ませました。
それに気づいた平城上皇らは、反撃するべく、自ら東国に出向いて兵を集めようとしましたが、まさに時すでに遅し。
坂上田村麻呂の軍に行く手を阻まれて逃亡を断念し、降伏して平城京へと戻ることとなります。
完全に包囲され、万策尽きた平城上皇方。
結局薬子が服毒自殺し、仲成は射殺され、こうして重祚の夢が完全に断たれた平城上皇が出家をすることで、薬子の変はあっさりと終わりを迎えたのでした。
3.論述で頻出!「薬子の変」の歴史的意義について解説
反乱自体は、わずか三日で収束した、比較的静かなものでした。
天皇VS上皇という最高権力者どうしの争いでしたが、以上に述べたように特に大きな戦いもなく、その最後も思いがけずあっさりとしています。
そこには、平城上皇に従うふりを見せながらも虎視眈々とタイミングを狙う、冷静沈着な嵯峨天皇のクレバーさが見え隠れしているような気もしますね。
では、この事件の歴史的意義は一体どこにあるのでしょうか。
まず、一つにはこの事件を契機として、藤原氏式家が没落の一途を辿ったことがポイントとして挙げられます。
式家の中でも有数の勢力を誇っていた薬子・仲成が死去したことは、式家の繁栄にとって大きな痛手でした。
二つめは、この事件の際に、嵯峨天皇によって「蔵人所」とよばれる令外官が設置されたことです。
様々な人物が関わる太政官政治の機構を通して天皇が詔勅を下すと、手続きが煩雑であるために様々な機密事項も漏洩する可能性が、やはりどうしても高くなってしまいます。
そのため、平城上皇側にそれらの秘密が漏れないようにするべく、側近を天皇の秘書的なポジションに抜擢し、政務を執り行わせました。
これが、「蔵人所」の始まりです。
そしてこの事件の後、この蔵人所において、天皇の私的な詔勅や機密の文書などを扱った秘書的な存在である「蔵人」と呼ばれる嵯峨天皇の側近が活躍しました。
蔵人所では数人の蔵人たちが政務を行ったのですが、そのうちのトップ=蔵人所の長官である蔵人頭に任命されたのが藤原冬嗣と巨勢野足の2人です。
藤原冬嗣は北家の人間です。
嵯峨天皇に信任されて天皇の蔵人頭となった藤原冬嗣はめきめきと頭角を現し、この後要職を歴任していくようになります。
彼の活躍が、北家の台頭のキッカケとなったのです。
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【論述対策】藤原氏北家が台頭・発展できたのはなぜか?その策略は?契機は?
いかがでしたか?
このように、この事件で薬子や仲成が死去したことを契機に、以後藤原家式家は没落の一途を辿り、一方でこの事件の際に設置された蔵人所の長官(蔵人頭)に藤原冬嗣が任命されたことが藤原氏北家の台頭の契機となるなど、
「薬子の変(平城太上天皇の変)」は日本という歴史の中で、非常に大きな意義を持つ出来事であったと言えるでしょう。
薬子の変に関する問題は、受験論述においても頻出であるので、しっかりと復習してもらえると幸いです。