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【論述対策】平安時代における律令制の弛緩&崩壊に対する朝廷の対応【桓武天皇の改革・直営田の設置・醍醐天皇の改革】





飛鳥時代末期より徐々に成立してきたとされる律令制ですが、奈良時代の半ば頃から少しづつ弛緩していったと言われています。



理由は、律令制の根幹を支える存在である農民たちに対して、朝廷があまりに大きな負担をかけすぎたからです。



律令体制下において、ピラミッド構造の最下層かつ最多数を構成する農民たちは、租・調・庸・雑徭・兵役・・・などなど多種多様な課役を負担したのですが、



この負担があまりに大きすぎたために、生活に困窮した農民たちの間では、偽籍浮浪逃亡私度僧といった納税忌避手段が一般化し、



そのために、国家は、戸籍計帳に基づいた人民の把握が困難となり、「公民制」が崩壊してしまったのでした。



そして、公民制の崩壊は同時に、口分田の荒廃にも繋がっていき、さらにそこに自然災害の多発や人口の増加も相まってしまったために、



全国的に口分田の不足が見られたといいます。



これを受け、なんとかして開墾地を増やそうとした朝廷は、「三世一身法」や「墾田永年私財法」といった法令を制定し、農民たちに開墾を促しました。



これにより、確かに開墾地は増えましたが、代償として農民たちに土地の私有を認めたために、「公地制」まで崩壊することとなってしまいます。



以上みたように、大化の改新以来目指されてきた律令制の基本理念である ‘‘公地公民‘‘ は、奈良時代の半ばごろから崩壊し、



それに伴い、律令制も次第に弛緩(しかん)していくようになったのでした。







さて、時代は流れて、今回の記事は平安時代のお話です。



朝廷たちは、律令制が解体していきつつあるのを、ただ黙ってみていたのでしょうか。



そんなことはありません。



だんだんと進行していく律令制の瓦解をなんとかしようと止めようと、朝廷も大いに奮闘しています。



今回の記事では、【平安時代前期~中期における、律令制の崩壊に対する朝廷の対応】について、まとめていきたいと思います!



目次―

1.農民の階層分化の進行と朝廷の財政難

2.朝廷の対応① 桓武天皇の改革

3.朝廷の対応② 直営田の設置

4.朝廷の対応③ 醍醐天皇の改革






 

1.農民の階層分化の進行と朝廷の財政難

 


8 世紀半ばごろから 9 世紀にかけても、貧農民による偽籍、浮浪・逃亡はますます増加し、戸籍と計帳はどんどん形骸化していきます。



これにより、戸籍・計帳に基づいた班田は困難となり、班田性は衰退していきました



一方で同じ頃、私出挙や税を払えない貧農民の代わりに、それらを肩代わりするなどといった行為を通して、



有力農民が貧農民を支配するようになっていったといいます。



これらの有力農民は口分田を集積して、それらを私有地化し、さらに新たに開墾地も設けるなどしてさらに力をつけ、



‘‘富豪の輩(ともがら)‘‘と呼ばれる富農層へと成長していきました。



このように、8 世紀半ばごろから 9 世紀にかけて、困窮した貧農民の間で偽籍、浮浪・逃亡が増加した一方で、



新たに有力農民層が生まれるなど、農民の間に貧富の差が生まれ、階層分化が進行していったのです。



お金を持っていない貧農民層はまだしも、経済力・影響力を持った富農層の存在は、



農民支配という観点において、朝廷にとっては非常に都合の悪い存在です。



朝廷による農民支配は、ますます上手く機能しなくなり、律令制は激しく動揺していくのでした。







さらに、公地公民制の崩壊は、政府の税収も減少をも意味しました。



律令に規定された農民の諸負担は、成人男性(とくに正丁)に偏重していましたことはこれまで別の記事でも繰り返し述べてきたことですが、



このために、調・庸・雑徭など課役を逃れるべく、男性が生まれた場合には、戸籍・計帳を作る際の申告で性別や年齢を偽ったり、



さらには、本人が自ら浮浪・逃亡などを実行し、本籍地から逃げてしまうことが多々ありました。



律令制において調・庸・雑徭などを負担した人々は「課口(課丁)」と呼ばれていましたが、



偽籍、浮浪・逃亡が増加したことによって、課口(課丁)の把握が困難となってしまったために、



本来朝廷に納められるべきであるはずの調・庸の収入が少なくなってしまったのでした。



こうして、朝廷は慢性的な財政難に見舞われるようになります



もちろん財政難に陥った背景として、他にも聖武天皇による大仏造立や遷都の頻発など、支出が大いに増加していたことも挙げられますが、



一方で、そ政府の主要な収入源の一つであった調・庸が減少していたことによって、そもそも収入自体も減少していたため、



政府の財政状況は、ジワジワと悪化の一途を辿っていたのです。



このような危機的な財政状況を改善するべく、朝廷は対応を迫られたのでした。



(ここで注意しなければならないこととして、朝廷の財政難に租は関係がないということが挙げられます。



租は、そもそも地方に納める土地税です。よって中央の財政難には直接影響しないのです。



さらに、租はそもそも輸租田にかかってくる土地税なので、偽籍などで公民制から脱却していてもちゃんと負担をしています。)





 

2.朝廷の対応① 桓武天皇の対応

 


さて、深刻な財政難に見舞われた朝廷は、どのように対応したのでしょうか。



最初に動いたのは、やはりあの男。桓武天皇です。



‘‘新王朝‘‘ の意識を持っていた桓武天皇は、その皇統の正当性を誇示するために、現実に即した律令制の再建を目指して諸改革を行っていたのですが、



桓武天皇はその一環として、農民負担の軽減を行いました。



公地公民制が崩壊し、律令制が弛緩しつつあるそもそもの原因が、農民負担が重すぎたことにあることを、



桓武天皇はしっかりと理解していたのです。



現実に即した律令体制の再建を目指すべく、農民負担の軽減を行った桓武天皇でしたが、具体的には以下のような政策を行いました。



雑徭の半減

公出挙利稲の軽減

班田の励行(畿内に限り 6 年1班から 12 年1班に)

軍団制の廃止



文字数の関係上、それぞれの政策についての具体的な説明はこの記事では省略致します。



⇓⇓⇓詳しくは以下の記事をご覧くださいませ。

【桓武天皇の諸政策について解説】なぜ勘解由使の設置が地方政治の引き締めに繋がるの?【勘解由使】



桓武天皇の政策は、たしかに重い負担に苦しむ農民たちに寄り添ったものでしたが、



律令制が弛緩しきってしまっていたこの段階では、もはや十分な成果を上げることができず、



残念ながら律令制の瓦解の流れを止めることはできませんでした。




 

3.朝廷の対応② 直営田の設置

 

さて、桓武天皇の努力も空しく、律令制の崩壊はどんどん進んでいきます。



それに伴い、朝廷の財政難は、どんどん深刻化の一途を辿っていきました。



政府の経済収支は危機的な状況です。



しかし、桓武天皇の失敗からも見て取れるように、もはや朝廷は農民からの税納入に頼ることはできなくなってしまっていました。



このような危機的な状況の中、公の機関は、自らが直接経営する「直営田」と呼ばれる田地を設定し、そこからの収入で財政を補填したのです。



「直営田」と呼ばれるものには、いくつかの種類がございます。



一つ一つ確認していきましょう。黒板をご覧ください。






公機関による直営田の設置というこの試みは大いに成功し、一時的に朝廷の財政は好転しました。



しかし、もちろんのことですが、朝廷によるこれらの対応はあくまで、財政の補填という一時しのぎの手段にすぎません



すなわち、これら直営田の設置は律令制の崩壊に対する根本的な解決には当たらず



結局のところ、律令制の崩壊はさらに進んでいってしまいました。







 

4.朝廷の対応③ 醍醐天皇の諸改革

 


さて、朝廷の対応も空しく、律令制の崩壊はどんどん進んでいってしまいます。



そんな中、平安時代半ばごろに登場したのが、醍醐天皇です。



天皇権威を再び高揚させることを望んでいた醍醐天皇は、律令制の再建を目指そうとしたと言われています。



その考えものと、醍醐天皇は律令制の基本原則である公地制の理念に立ち返ろうとし、



そして戸籍・計帳に基いた、かつてのような班田収授法を再び機能させようとしました



「統治システムを律令国家当初のものに戻そう。そして律令制の崩壊を止めよう」――



醍醐天皇はそのように考えたのです。



班田収授法を再び機能させるための最初のステップとして、902年に行われたのが「延喜の荘園整理」でした。



醍醐天皇は902年、自らが発した「延喜の荘園整理令」を根拠に、日本全国で荘園整理を行い、口分田となる土地を確保することに成功します。



そして、同年902年にそのまま班田を実行しました。



多少強引にでも、律令制当初のシステムに、無理やり立ち返ろうとしたのです。






・・・しかし、醍醐天皇による律令制再建の挑戦は、914年にあっさりと終わりを迎えることになります。



キッカケは、三善清行が「意見封事十二箇条」を提出したことにありました。



「意見封事十二箇条」とは、かつて三善自身が国司として地方行政にあたっていたときの経験をもとにして書かれた政治意見書であり、



地方行政の実情に関する意見が、説得力に富んだ根拠を伴って、12箇条にわたって記されていたといいます。



この意見書内で三善は、醍醐天皇に対して、律令制当初のシステムに戻ることの困難性を指摘したのです。



三善の意見は非常に鋭いものでした。



「奈良時代以来の公地公民制はもはや崩壊しており、中央は深刻な財政難を迎えています。



この苦難を乗り越えるべく律令制を再建したいという醍醐天皇のお気持ちはよくわかりますが、



もはや律令制は修復が効かないくらいダメになってしまっているのではないでしょうか――」



そして、実際に「延喜の荘園整理」という大改革も、思うような成果が出ていなかったことから、



醍醐天皇は三善の意見を受け入れ、律令制の再建を断念したのです。



朝廷は自ら、律令制を放棄する道を選んだのでした。



⇓⇓⇓「延喜の荘園整理」に関する詳しい記事はコチラから!

【延喜の治】「延喜の荘園整理」とは?なぜ行われた?『意見封事十二箇条』とは?醍醐天皇の諸政策について解説!




 
いかがでしたか?


以上みたように、律令制の弛緩に対して、朝廷は様々な対応を試みたのですが、結局律令制の瓦解を食い止めることはできず、



平安時代半ば頃に、律令制自体を放棄してしまうという道を選ぶのです。



しかし、それでもまだ朝廷の財政難が解決したわけではありません。



この後、公地公民制を基本理念とする律令制に基づいた徴税方式から、また全く新たな徴税方式へと、税制の一大転換が行われたのでした。



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