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【論述対策】奈良時代における農民負担の増大と公地公民制・律令制の弛緩&崩壊【後編:公地制の崩壊】







当記事は、奈良時代における公地公民制・律令制の弛緩・崩壊についてまとめた、前編・後編のセット記事です。



⇓⇓⇓ぜひとも、まずは前編からご覧くださいませ。

【論述対策】奈良時代における農民負担の増大と公地公民制の崩壊&律令制の弛緩【前編:公民制の崩壊】







さて、まずは前編の復習から簡単にいたしましょう。



律令には、調雑徭・・・などなど多種多様な農民負担が規定されていたのですが、



成人男性(とくに正丁)に偏重したこれらの諸負担は、貧しかった農民たちにとって非常に重いものであり、



徴税から逃れようとした農民たちの間では、偽籍浮浪逃亡、さらに私度僧といった納税の忌避手段が一般化するようになります。



朝廷による戸籍と計帳に基づいた人民把握制度は、ここにおいてもはや上手く機能しなくなり、「公民制」が崩壊してしまったのです。



また、もとの土地から逃げ出した農民たちが多数いたのですから、公民制の崩壊は同時に、口分田の荒廃を招くことになります。



さらに、そこに自然災害の頻発や人口の増加も相まって、奈良時代には全国的に口分田が見られるようになってしまったのです。



さて、後編の主題はここからです。



公民制の崩壊に伴い発生した全国的な口分田の荒廃・不足に直面した朝廷はどのような対応を余儀なくされたのか。



「公地制」の崩壊に至るまでの過程を、順を追って説明していきたいと思います!



⇓⇓⇓当記事に該当する授業ノートはコチラ!

授業ノート(PDF版)【奈良時代④ 重すぎる農民負担と公地公民制の崩壊】



〇前編

1.過度な農民負担・・・「租」「調」「庸」「雑徭」「兵役」

2.農民たちの抵抗!偽籍、浮浪・逃亡、私度僧の一般化

3.公民制の崩壊と口分田の荒廃・不足

〇後編

4.三世一身法の発令

5.墾田永年私財法の発令

6.公地制の崩壊と初期荘園の成立







 

4.三世一身法の発令

 


さて、公民制の崩壊に伴い発生した全国的な口分田の荒廃・不足に直面した朝廷は、この状況を打開するべく、



なんとかして開墾地を増やそうと奮闘します。



といっても、日本全国の土地はあまりに広大です。



こんなだだっ広い範囲の土地の開墾を、朝廷自身が行うわけにはいきません。



結局のところ、土地の実際の開墾は、農民という労働力に頼らざるを得ないのが現状でした。



ただでさえ重い諸負担で苦しんでいる農民たちに、土地の開墾を促すためには一体どうすればよいでしょうか。



この状況を解決してくれるであろうという朝廷の淡い期待のもと、723年――元正天皇長屋王政権のときです――に出されたのが、「三世一身法」と呼ばれる法令でした。







さて、それでは「三世一身法」の具体的な内容について確認していきましょう。



簡単に言ってしまえばこの法令は、一定期間であればその土地を自分のモノにしていいよ!というインテンシブ(動機付け)のもと、



農民たちに土地の開墾を奨励したものです。



注意しなけらばならないのは、その期間の具体的な長さですね。



既存の灌漑施設を利用して土地を開墾した場合には、開墾者一代限り



新たに灌漑施設を建設して土地を開墾した場合には、開墾者を含めた三代限り(開墾者、子、孫)



に、その開墾した土地の私有が認められたといいます。



「三世」とは「三世代」ということなのですね。







この法令が出されたことで、確かに一時的には開墾地の増加が見られたようです。



しかし、当時の平均寿命は現代の約3分の1ほどと言われていますので、いくら3世代までとはいっても、



実際にその土地を私有できる期間は、それほど長いものではありませんでした。



さらに、荒れた土地の開墾や、灌漑施設の新設といった作業は、大いに労力と時間がかかるものです。



農民たちからしてみれば、どうせ数十年後に国に没収されてしまうのですから、わざわざそのようなコストをかけてまで土地を開墾する意欲もわきませんよね。



また、実際にこの法令に基づいて開墾された土地も、収公の時期が近付くと手入れがなされなくなり、荒れ地に戻ってしまいがちであったといいます。



このように、三世一身法の効果はイマイチなものであったと言えるでしょう。





 

5.墾田永年私財法の発令

 


三世一身法が失敗に終わった今、もう朝廷には後がありません。



743年――聖武天皇橘諸兄政権のときです――皆さんご存じ、「墾田永年私財法」と呼ばれる法令が出されました。



おそらく苦渋の決断だったでしょうが、食糧生産を増やすべく、朝廷は自ら公地制の崩壊を選んだのです。







では、墾田永年私財法の具体的な内容についてまとめていきましょう。



三世一身法が、一定期間その土地の私有を許可するというインテンシブ(動機付け)のもと、農民たちに土地の開墾を奨励したのに対し、



墾田永年私財法では、その土地の永久的な私有を許可するというインテンシブ(動機付け)のもと、農民たちに土地の開墾を奨励したのでした。



ただこの私有が認められるには、いくつか条件がありました。



少し難関大受験生向けの内容ですが、確実に押さえていきましょう。



まず一つ目に、開墾できる上限面積は、位階によって制限されていました



一番偉い人、たとえば正一位や従一位などでは500町まで私有が認められ、



一方で下級官人や一般庶民などでは、最大10町まで私有が認められたといいます。



「町」は面積の単位です。



一町は現代の国際単位系で表すと、約9,917㎡です。



すなわち、一町≒10,000㎡=1haくらいと考えていただけばよいでしょう。



東京ドームの建築面積は約4.7haであるとされていますから、一般的な農民といえども、



最大で東京ドームだいたい2個分の土地を永久的に私有することが認められたのでした。



二つ目に、この法令のもと土地を開墾・私有する場合には国司の許可が必要であり、



三つ目に、その許可を得てから3年以内に開墾を終了することが条件とされたようです。



もう一つ、この法令に基づいて新たに開墾された土地=墾田は、輸租田とされ、国家への納税義務があったことも押さえなければなりません。



開墾した土地の私有を認めることで、農民たちに対して開墾の意欲を刺激した一方、



その土地を輸租田とすることで税収源を確保するというシステムが確立されたのですね。



また、墾田永年私財法の制定の背景には、開墾地を増やすことによって人々が生きていくのに不可欠である食糧の生産を増強し、



人々の最低限度の生活を保障するという意図もあったと言われています。



(墾田永年私財法に関する補足知識です。道鏡政権のときの765年に出された「加墾禁止令」により、



寺院・百姓以外の者による墾田永年私財法に基づいた開墾は、一時禁止されました。



しかし、藤原百川へと政権が推移したのち、772年にこの加墾禁止令は解禁され、同時に開墾の面積制限も撤廃されています。)






 

6.公地制の崩壊と初期荘園の成立

 


さて、最後の章では、三世一身法ならびに墾田永年私財法の意義をまとめましょう。



墾田永年私財法の制定により、日本全国で「初期荘園」と呼ばれる土地形態が成立することとなります。



「荘園」という言葉に苦手意識を持っている受験生は多いようですが、初期荘園の内実はいたって単純です。



初期荘園とは、墾田永年私財法の制定により、貴族や大寺院が自らの莫大な経済力を背景に開墾・所有した土地のことをいいます。



といっても、当然のことながら、貴族たち自身や大寺院の偉いお坊さんたちが自ら実際の開墾を行ったわけではありません。



実際の開墾を担ったのは、周辺の班田農民や付近の浮浪・逃亡農民でした。



具体的には、貴族や大寺院は「賃租形式」と呼ばれる経営体制を導入し、



それら農民たちに収穫量のうち2割を地子(=土地使用料)として領主(=この場合貴族や大寺院)に納めさせることを条件として、



その土地の開墾・経営を行わせたのです。



また、墾田永年私財法によって成立した初期荘園は、当然のことながらもちろん輸租田であるため、租を納めなければなりません。



このことからも、後の平安時代半ば頃に成立する「荘園」とは違い、まだこの段階における「初期荘園」は、



律令制的な支配体制からは脱却していなかったといえるでしょう。



また、初期荘園の開墾には、国家や国衙の援助が不可欠であり、そのような意味において初期荘園の支配・経営は、国家権力に大いに依存していました。



それゆえに、弛緩していた律令制が徐々に解体してくる9世紀頃になると、このような初期荘園は労働力を確保できなくなって、



その経営はいよいよ不安定はものとなり、9世紀半ばごろにはその大半が消滅してしまったといわれています。







偽籍、浮浪・逃亡、私度僧の一般化により、戸籍・計帳に基づいた人民把握が機能しなくなったことで公民制が崩壊してしまったことは前編で見た通りですが、



口分田の荒廃・不足によって生じた開墾の必要性から、朝廷はついに「公地制」の放棄まで余儀なくされたのでした。



この日本における全ての土地と人民は天皇のモノだ!



「公地公民制」は大化の改新以来、政府による支配体制の基本理念でありましたが、



その律令制的な土地・人民支配機構は、奈良時代半ばまでに、ついに崩壊してしまったのです。



これまでに繰り返し述べてきたことですが、こうなってしまったもともとの原因は、朝廷が農民に対してあまりに重い負担をかけてしまったことにありました。



税負担の増大が、律令制の根幹を支える農民たちの疲弊・抵抗を促し、紆余曲折を経て、公地公民制の崩壊へと繋がります。



これにより、公地公民制を基本原則とする律令制は、大きく動揺していくこととなるのです









 
いかがでしたか?


今回は2記事にわたって、奈良時代における公地公民制の崩壊と律令制の弛緩についてまとめてきました。



公地制の崩壊は土地制度や税制度に関わるものであるため、一見とっつきにくそうに思われがちなテーマです。



しかし、以上みたように、そこには【公民制の崩壊⇒公地制の崩壊】という非常に単純明快な論理があることがおわかりいただけたかと思います。



今回のテーマは、徴税方式の転換や土地制度の変遷、さらには荘園公領制の成立など、



古代・中世における日本の税制度・土地制度において根幹となるものです。



今一度復習を徹底し、次の学習へと繋げていただければ幸いです。



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