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【論述対策】奈良時代における農民負担の増大と公地公民制の崩壊&律令制の弛緩【前編:公民制の崩壊】

更新日:2019年11月6日






さて、「公地公民制」の理念のもと、飛鳥・奈良時代における朝廷は中央集権的な体制の建設を進めていったのですが、



飛鳥時代の終わりごろから徐々に成立されたとされる律令制は、奈良時代半ばごろからだんだんと弛緩(しかん)していき、



天皇を中心とした、この「公地公民制」は徐々に崩壊していくのでした



一体何が問題であったのでしょう。



今回の記事では、奈良時代を語る上で非常に重要である【公地公民制の崩壊による律令体制の弛緩】について、紹介していきます。



古代日本の「税制度」「土地制度」を理解する上で、その根幹となるテーマです。



ここが分からないと、平安時代半ばごろに徴税方式が転換された理由や、中世的な土地制度へと移行した背景などが非常に理解しづらくなってしまいます。



それらを理解していくためにも、まず、このテーマをしっかりと理解することが大切なんですね。



税制度や土地制度は苦手という方もご安心ください。



一見とっつきにくそうに思える今回のテーマですが、実はその一つづつ順序を追っていけば、実はその論理関係は非常に明確なんです!



ということで今回は、奈良時代における【公地公民制の崩壊による律令体制の弛緩】について、2回にわたり



前編では【公民制の崩壊】について、さらに後編では【公地制の崩壊】について紹介していきたいと思います!




目次-

〇前編

1.過度な農民負担・・・「租」「調」「庸」「雑徭」「兵役」

2.農民たちの抵抗!偽籍、浮浪・逃亡、私度僧の一般化

3.公民制の崩壊と口分田の荒廃・不足







 

1.過度な農民負担・・・「租」「調」「庸」「雑徭」「兵役」

 


なぜ公地公民制に基づいた律令制は崩壊していったのでしょうか。



実は、その理由は非常に単純です。



律令制の根幹を支えた農民たちに対する諸負担が重すぎたからです。



‘‘公民制‘‘ の理念のもと、天皇は「戸籍」や「計帳」をもとにして人民を支配していったのですが、



その際、天皇をトップとする階層ピラミッドの最下層でありかつ最多数であった農民=一般庶民に対して強いた諸負担があまりに重かったため、



そのピラミッド構造は徐々に不安定なものとなってしまったのです。



さらに、そこに疫病・飢饉の発生も相まって、農民たちの生活は非常に困窮し、税から逃れる抵抗手段をとる農民が多数生まれてしまったのでした。







それでは、まず、律令制にて定められた農民負担について軽く復習していきましょう。



黒板をご覧ください。



租、調、庸、雑徭、兵役などなど、古代日本において農民たちは多種多様な課役を負担したのです。




△黒板:古代における農民の諸負担完全まとめ



租は地方の土地税です。男女一律の賦課基準であり、与えられた口分田の面積に応じて稲が納められました。



調・庸はともに成人男子のみに課せられた中央の人頭税です。



調では地方の特産物を、庸では歳役(都での労役)の代わりに布2丈6尺を、京へと自ら運脚することが求められました。



雑徭は成人男子のみに課せられた地方の人頭税であり、国司のもとで年間最大60日間、地方の労役に従事することが定められたといいます。



最後に、正丁の3~4人に1人の割合で課せられる兵役という負担もあり、軍団に配属されて軍事教練を受けさせられたのでした。



その他の負担としてはほかにも、兵役から派生した衛士・防人、備考貯蓄のために粟を納める義倉、3年間都の雑役に従事する仕丁などといったものもありました。



以上のように、律令制のもと、農民たちは多種多様な重い負担を強いられていたのです。







そして、この各種の負担にはもう一つ特徴があります。



負担の割合が、成人男子に大きく偏っていたのです。



そのなかでも、とくに負担が大きかったのは、正丁と呼ばれる21~60 歳の男性たちでした。



言い換えれば、農民負担は正丁に偏重しており、彼らが最もその負担を被っていたのです。



これらの特徴を踏まえたうえで、これら各種負担から逃れるべく、農民たちはどのような抵抗手段をとったのか、次の章で確認していきましょう。




 

2.農民たちの抵抗!偽籍、浮浪・逃亡、私度僧の一般化

 


朝廷にとって、農民=人民支配の基本台帳となったのは、当然「戸籍」と「計帳」です。



戸籍と計帳に基づいて、朝廷は各個人を把握し、各種税を負担させたのですね。



戸籍・計帳によって、名前から住所・性別まで、朝廷によって管理されているわけですが、



といっても高度に情報化・管理化が進んだ現代とは違い、言ってみれば農民の自己申告をもとに、これら戸籍・計帳は作成されます。



重い重い税負担を少しでもいいから減らしたい・・・



このように考えたとき、農民たちは一体どのようにすればいいのでしょうか。



答えは簡単です。



役人たちが戸籍・計帳を作りに訪れた際に、性別や年齢を偽って申告してしまえばいいのです。



こうして農民たちの抵抗手段として横行したのが、「偽籍」と呼ばれるものでした。



成人男子、とくに正丁に偏重した税負担から逃れるべく、農民たちは戸籍や計帳の記載内容を偽って報告したのです。



もし男の子が生まれた場合、その子供の性別を女の子であると申告してしまいます。



しかし、それでも家族の中にあまりに女の子が多くなってしまっては不自然なので(少なくとも父として男性一人は必須)、男性として申告する場合には年齢を偽ったといいます。



こうすることで、農民たちは、本来あるべき調・庸・雑徭などの税負担から逃れることに成功したのです。



自然というのはよくできたもので、どの時代・どの民族でも生まれた子供の男女比率は、だいたい1対1になると言われています。



ところが、奈良時代~平安時代にかけて作られた戸籍をのぞいてみると、どういうわけか人口の8~9割近くが女性であるものが多いようです。



もちろん自然にこうなったわけではありません。



戸籍・計帳が作成される過程で明らかな人為的作為があったことが見て取れるわけですね。



なお、このように明らかに不自然な家族構成の申告が通った背景として、農民と国司との結託・協力や、国の官人の黙認が暗に存在していた、ということが考えられています。








農民に課された各種負担が非常に重いものであったということは、これまでに繰り返し述べてきたことですが、



それに加えて、奈良時代は疫病や飢饉が多々発生したこともあり、農民たちの中には生活が非常に困窮する者も多くいたといいます。



もはや彼らに手段は選べません。



税負担から逃れる2つ目の抵抗手段として、「浮浪」「逃亡」というものが横行したのでした。



どちらも言葉通りです。



徴税から逃れるために戸籍・計帳に登録されている本籍地から逃げ出してしまうことですね。



浮浪と逃亡の違いを問うてくる、重箱の隅をつつくような問題はほとんど出ませんが、その違いを強いて言うならば、



浮浪とは、本籍地から流浪した後、所在が明確な場合



逃亡とは、本籍地から流浪した後、所在が不明な場合



のことを指しています。



といってもその本質は一緒なので、その違いまで覚えなくてもまあ大丈夫でしょう。



浮浪・逃亡の中には、農業経営の拡大を意図するなどして、納税の義務を果たしながらもあえて移住を繰り返す人々もいたようです。



しかし、いずれにしても戸籍・計帳に登録された本籍地から移動する行為は、戸籍・計帳に基づいた支配体制の根幹を揺るがすものであり、



朝廷にとって煩わしいものであったことは間違いないでしょう。







さらに、もう一つの抵抗手段として「私度僧」というものもありました。



古代、剃髪して僧侶になることは「得度(とくど)」と呼ばれていました。



私度僧とは、私的に得度した僧のことをいいます。



律令体制下では僧侶になるために官許が必要だったのですが、これを得ることなく勝手に坊主になる農民が続出したのです。



僧侶には納税や兵役を免除されるという特権があったからでした。



しかし、この「私度僧」という抵抗手段が一般的であったのは8世紀半ば頃までであったと言われています。



一体なぜでしょうか。



答えは、752年に唐から鑑真が来日し、仏教の僧侶になる上で守らなければならない「戒律」と、



僧侶になるための正式な儀式である「授戒」を伝えたことにあります。



鑑真の教えにより、授戒を経て戒律を順守することを誓わなければ僧侶にはなれないという正式な手続きが定められたのでした。



このため、免税の手段として私度僧になることはできなくなり、8世紀半ば以降この抵抗手段はなくなってしまうのです。





 

3.公民制の崩壊と口分田の荒廃・不足

 


さて、これまで述べてきたことをまとめてみましょう。



正丁に偏重した農民負担は非常に重いものであり、徴税から逃れようとした農民たちの間では、



偽籍浮浪逃亡、さらに私度僧といった抵抗手段が一般化するようになります。



戸籍計帳に基づいた朝廷による人民把握制度は、もはや上手く機能しなくなってしまったのです。



すなわち、農民負担があまりに重すぎたために、結果として「公民制」が崩壊してしまったのでした。



なお、逃げだした農民たちは国家の手を逃れ、貴族や寺院のもとに集まっていくようになったといいます。







公民制という律令制の基本原則が崩壊しつつあることももちろん大切ですが、この公民制の崩壊は、やがて、口分田の荒廃を招くこととなってしまいます



当然ですよね。



逃げ出した農民が多数いたのですから、耕す人がいなくなった口分田は当然、徐々に大草原の荒れ地になっていってしまったのです。



こうして、全国的に口分田が荒廃がしてしまったのでした。



問題はそれだけにとどまりません。



口分田が荒廃したことに加え、奈良時代には自然災害が頻発し、さらにそこに人口の増加も相まったことから、



全国的に口分田の不足が発生してしまったといいます。



この状況を打開するべく、政府はなんとかして開墾地を増やそうと奮闘するのですが、



その過程の中で出されたのが、「三世一身法」や「墾田永年私財法」といった法令なのでした。



後編、【公地制の崩壊】へと続きます!







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