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【藤原頼通の不遇な人生】栄華一転、摂関政治はなぜ終焉したのか。外寇や地方反乱まで頼通の時代に起こった出来事を解説!【平等院鳳凰堂】






さて、これまでの記事で繰り返し述べてきたことではありますが、藤原氏内部における‘‘氏の長者‘‘争いは、最終的に道長の一人勝ちに終わり、




藤原摂関政治および藤原摂関家は藤原道長・頼通父子のときに全盛期を迎えることとなります。




今回は、藤原頼通についてのお話です。




あまりに偉大な道長の息子として、難しい政治の運営を迫られることになった頼通は、強運の持ち主であった道長と比べてなんとも運がなく、




そしてその時代もなかなかに不遇なものでありました。




今回は、そんな不遇であった藤原頼通の時代について、さらには全盛を迎えた道長・頼通の時代の後に一転して摂関政治が衰退・終焉を迎えることになってしまった背景について、




順番に分かりやすく解説していきます!



⇓⇓⇓該当する授業ノートはコチラから!

授業ノート(PDF版)【平安時代⑨ 摂関政治の全盛―藤原道長と頼通―】



⇓⇓⇓前回の記事、‘‘氏の長者争い‘‘や藤原道長に関する記事はコチラから!

【氏の長者争い-前編-】兼通VS兼家の摂関の地位をめぐる対立。藤原氏のトップはどのように変遷した?【徹底解説】

【氏の長者争い-後編-】道隆VS道兼、道長VS伊周。栄華を極めた藤原道長の人生。その政策は?なぜ道長は関白にならなかった?【徹底解説】




○目次―

1.偉大なる父・道長と比較されがちな不遇な頼通の人生

2.外寇の発生。「刀伊の入寇」と朝廷の対応

3.地方反乱の発生。「平忠常の乱」と「前九年合戦」

4.頼通の功績といえばコレ!平等院鳳凰堂の建立

5.頼通最大の不幸。皇子の不在と摂関政治の終焉。








 

1.偉大なる父・道長と比較されがちな不遇な頼通の人生

 


1017年に道長から摂政とともに氏の長者の地位を譲られた頼通は、ここから本格的に政界へと飛び込んでいくことになります。




当時頼通は27歳の若さでした。




藤原氏の長い歴史の中でも、最年少の若さで摂政に就任したことになります。




しかし、さすがにそのように若い頼通に政治の全権を任せるわけにはいかず、道長が死ぬまでの間、道長がその政治をしばらく陰で支えていきました。




頼通はその後約50年間にわたり、後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の 3 代にわたって摂政や関白の座を維持し、




道長の死後は名実ともに権力の頂点に君臨し続け、摂関政治の全盛期を維持することに成功したのです。




と、このように書けば、道長の子である頼通もさぞ立派な人物であったのだという印象を受けますが、




では実際に頼通が歴史的・政治的に見てどのような功績を上げたかというと、実はほとんどないんですよね。




たしかに、父であった道長と比べて頼通の知名度はイマイチ高くないような気がします。




父道長は激しい氏の長者争いを制した後、‘‘一家三立后‘‘を達成して藤原氏の全盛期を築き上げたもの凄い人物でありました。




しかし、このような権勢が築き上げられてしまった以上、もはや頼通には自ら成し遂げられるようなことは何も残されていなかったのです。




頼通にできたことといえばただひとつ。




父道長が築き上げた藤原氏全盛を維持する。




すなわち現状維持に努める。これだけでした。




もちろん藤原氏の全盛期を維持したというだけでももの凄いことではありますが、父道長の功績が偉大すぎるあまり、




そういった意味で頼通は、常に道長の影に隠れがちで、イマイチ不遇な存在であるといえそうです。







さて、頼通にとって不幸であったのは、頼通の時代になってからというもの、それまでの道長の時代までにはなかった問題が次々と浮上してきてしまったことにあります。




摂関政治期の時代の特徴について簡単に復習します。




摂関全盛期においては基本的に、先例や儀式が重視された形式的な政治が繰り返される一方であり、




さらに平安貴族たちに「よりよい政治を行って日本をよくしていこう!」といった意識は全くなく、その関心は個人や子孫の栄達に執着していました。




極論、「自分やその家族たちが繁栄し、幸せならそれでいい!」といったような、非常に無責任な政治が蔓延していたために国内政治は軽視され、




その中でも地方政治は国司(受領)に一任されていたために特に乱れていき、その治安は見えないところでどんどん悪化していっていました。




また、外交に関しても特に積極的な政策が行われることはなく、平安時代のこの頃、日本は東アジアにおいて孤立の一途を辿っていました。




まとめると、平安時代の摂関政治期において、朝廷貴族たちは地方政治や海外情勢には全く目を向けてこなかったわけですが、




不幸にも頼通の時に、そのツケが回ってきてしまったのです。



⇓⇓⇓摂関政治についてのさらなる詳しい記事はコチラから!

【藤原摂関政治】「摂関政治」完全まとめ。その特徴・仕組み・経済基盤など分かりやすく解説!【論述対策】





 

2.外寇の発生。「刀伊の入寇」と朝廷の対応

 


平穏そうな印象を受ける摂関全盛の時代ですが、上に述べたような国内政治の乱れと海外情勢対策への不徹底が相まって、




頼通のときには外寇や地方反乱がいくつか発生しています。




1019年には驚くべきことがおこりました。




突然、九州北部に外国の船団が来襲するという事件が起こったのです(「刀伊の入寇」)。




来襲したのは、大陸の沿海州と呼ばれる地方に生活していた女真(刀伊)と呼ばれる人々でした。




もともとこの人々は、926年に遼(契丹)により滅ぼされ、そのまま遼の支配下に置かれていた渤海の遺民たちだったといいます。




50隻・約3000人ほどにもなる海賊軍は、対馬や壱岐、筑前や肥前など主に九州北部を襲撃し、




何百という人々が殺害され、1000人以上もの壮年な男女や子供が拉致されたほか、放火や略奪が繰り返されたといいます。




朝廷はこのとき、宋との関係が比較的良好であったため、外国の脅威をあまり感じていなかったようです。




そのため、今回のあまりに突然発生した一連の事件は、朝廷に大きな衝撃を与えたといいます。







この海賊たちの撃退にあたったのが、当時大宰権帥であった藤原隆家です。




隆家は、藤原道隆の子供、道長との氏の長者争いに敗れた伊周の弟にあたる人物であり、




伊周同様、氏の長者争いで道長が勝利をおさめた後に、政治の表舞台からは姿を消した人物でありました(参考:「長徳の変(花山院闘乱事件)」)。




九州にとって不幸中の幸いであったのが、この藤原隆家が九州のトップであったことです。




隆家は豪傑な性格であるのみならず、九州の地方武士団や在地住人らをまとめあげるだけの統率力と冷静さを持ち合わせていた人物でした。




思いがけない急襲であり、しかもこれだけの大損害を与えられた後であったのにもかかわらず、




隆家率いる防衛軍はわずか10日余りで刀伊の海賊軍を撃退することに成功します。




もちろんこの間、朝廷はなんにもしていません。




これだけの大事件であったのにも関わらず、朝廷はその撃退と防衛を完全に地方に任せっきりだったのでした。




このように同事件における朝廷の対応は、自国防衛への危機意識の欠如と地方への無関心さが露骨に現れたものだったのです。






 

3.地方反乱の発生。「平忠常の乱」と「前九年合戦」

 


前章では外寇「刀伊の入寇」について述べましたが、頼通の時代には国内における反乱、すなわち地方反乱が発生してしまったことも忘れるわけにはいきません。




また別の記事で詳しく述べますが、頼通の時代の1028年~1031年には「平忠常の乱が、1051年には「前九年合戦という大反乱が発生しています。




繰り返しますが、摂関政治が運営されたこの時代の朝廷貴族たちは、個人や家族の栄達ばかりに執心し、




国内政治・地方政治というものは全く疎かにされていたのであります。




政権担当者の政治への無関心は地方政治の乱れ・治安の悪化を産み、それが武士の台頭へと結びついていったのでしたが、




今回発生したこの2つの反乱は、地方政治の乱れがもはや取り返しのつかないところまで進行してしまっていたことを印象付けた事件でした。




京都の華やかな生活を謳歌していた朝廷貴族たちにとって、全く目を向けていなかった地方が、目に見えないところで徐々に変質していっていたのです。




そこで発生した「武士」たちが今後自分たちを脅かすような存在になっていくとは夢にも思っていなかったでことしょう。




平安時代の後半~末期にかけて、これまでの「貴族」の時代に代わって「武士」の時代が到来しますが、




ある意味でこの変遷は、貴族たちにとって自業自得、すなわちこの時代において、貴族たちが国内政治を顧みなかったことによるツケが回ってきたものであると考えることもできるのかもしれません。






 

4.頼通の功績といえばコレ!平等院鳳凰堂の建立

 


さて、ここまで頼通の時代に発生したマイナスな出来事ばかり述べてきましたが、プラスの出来事いついてもふれていきましょう。




頼通が残した功績として最も有名なものといえばもちろん、「平等院鳳凰堂」の建立でしょう。




これまで述べてきたこの時代の負の側面を全く感じさせないほど、平等院鳳凰堂は立派な建物です。




10円玉の額面に印刷されている寺院として非常に有名なこの文化遺産が、国内のみならず海外からも多くの観光客を集めていることは、もはや述べるまでもないでしょう。




頼通は道長から譲り受けた京都(宇治)の地にあった別荘を1052 年に寺(平等院)とし、 さらに 1053 年にはその平等院の中に阿弥陀堂を建立しました。




これが「平等院鳳凰堂」です。




阿弥陀浄土を具現化したともいわれる鳳凰堂や、定朝の作である本尊・阿弥陀如来坐像など、歴史的に非常に価値のある文化財を多く含んだこの建築は、




平安時代の通史のみならず文化史でも頻出のテーマですね。




その成立に、1052年から‘‘末法‘‘の世が到来するという末法思想の隆盛が強く関連していることは言うまでもありません。








 

5.頼通最大の不幸。皇子の不在と摂関政治の終焉。

 


最後の章では、不遇な頼通の人生のうちでも最も不幸であったことについて解説していきます。




この不遇さこそが、実はこののちの藤原摂関政治の衰退・終焉に大きく関連していることから、




時代の流れ・権力の変遷を掴んでいく上で非常に大事なポイントとなっていますので丁寧に解説していきます!







頼通にとっての最大の不幸は、なかなか子供にめぐまれなかったことにありました。




当サイトでも繰り返し述べてきたことにありますが、摂関政治を運営する上で最も重要なことは、「娘を天皇に嫁がせて男の皇子を産んでもらうこと」にあります。




その生まれた皇子が後に天皇として即位した際に、その摂政・関白として政権を掌握するということこそ、摂関政治の基本的なスタイルであるからです。




道長はこの点において、非常に強運の持ち主でありました。




‘‘一家三立后‘‘を実現したことからもわかるように、道長は天皇に嫁がせられるたくさんの娘に恵まれたのみならず、彼女らがちゃんと男児を産んでくれたのです。




一方、頼通はこの点において全く持っていない男でした。




孫以前に、そもそも妻との間になかなか子供が生まれなかったのです。




結局、頼通は嫄子という名の女性の養子を迎え、そしてようやく、これまで先代たちが行ってきた外戚政策の実施にこぎつけ、




時の天皇であった後朱雀天皇に娘の嫄子を嫁がせることに成功しました。




しかし、ここでも頼通は運の悪い男でした。




残念ながら嫄子は男の子を産むことなく、1039年に若くしてこの世を去ってしまったのです。




なお、頼通には他にも教通や頼宗などといった兄弟がおり、彼らも彼らで同天皇へ娘の入内を行いましたは、それでも男児が生まれることはありませんでした。




ここにきて、頼通のみならず藤原氏北家全体の没落がかかった大ピンチが訪れたのです。








1045年には、崩御された後朱雀天皇に代わり、後冷泉天皇が即位します。




これを受け、頼通は再び迎え入れた寛子という名前の女性の養子を、後冷泉天皇に入内させます。




しかし、ここでも頼通は徹底して運の無い男でした。




後冷泉天皇と寛子にも、男児の皇子は生まれず、ついに頼通は天皇との外戚関係を構築することができなかったのです。




しかも、弟の教通も同じように娘を後冷泉天皇に嫁がせていましたが、その間にも子供は生まれませんでした。




何度も述べたことですが、摂関政治はそもそも、天皇の外祖父であるという立場を利用して政治の実権を握る政治体制でありました。




そのため、そもそも天皇に嫁がせた娘と天皇との間に皇子(すなわち孫にあたる)が生まれなければ、全くお話にならないわけです。




摂関政治とは、天皇に嫁いだ娘が男の子を産んでくれなければスタートし得ない、運の要素が非常に強い不安定な政治体制であったと言うことができましょう。




全盛期を迎えていたイケイケ藤原摂関家は、頼通に限らずその兄弟が皆この外戚政策に失敗してしまったことから一点、




摂関家を外戚としない皇太子を認めざるを得なくなり、最大のピンチを迎えることとなるのです。







そして1068年、その皇太子が後三条天皇として即位を果たします。




摂関家を外戚としない後三条天皇には、もはや藤原氏を摂政・関白として迎えてペコペコする必要はありません。