
今日のテーマは、ズバリ藤原氏による「摂関政治」です!
安和の変ののち、摂関の(ほぼ)常置体制が築かれ、藤原氏北家による摂関政治の全盛期が訪れるのですが、
この摂関政治は一体どのような特徴を持つ政治形態であり、一体どのように運営されていたのか、
これを明確に文章で表現でできる受験生は非常に少ないです。
しかしながら、実は、摂関政治は大学受験日本史における論述問題で非常に頻出のテーマであります。
なぜなら、「摂関政治」という分野だけで、運営の仕組みやその特徴、経済基盤などなど様々な問い方ができるからです。
さらに、摂関政治の論述問題においては、それを実際に運営した藤原氏の名前(道長、頼通など)や、
それにまつわる単語(摂政、関白、外戚政策など)を知っているだけではなかなか十分な回答を作ることができず、
そういった点で試験本番までに行ってきた学習の質や量を背景に、各受験生の間で大きな差がつく分野であるからです。
これらを念頭に置いたうえで、今回は「摂関政治」をテーマに、その仕組みや特徴、経済基盤などを論述問題対策を踏まえながら解説していきます!
⇓⇓⇓以下の記事なども大いに関連していますので、ぜひ一緒に復習していただけると幸いです。
【理由・仕組みを解説!】なぜ藤原氏は外戚政策を行うことで摂政・関白となれたのか?【ポイントは‘‘妻問婚‘‘】【サザエさんで考えろ!?】
【論述対策】藤原氏北家が台頭・発展できたのはなぜか?その策略は?契機は?
⇓⇓⇓当講義に該当する授業ノートはコチラから!
授業ノート(PDF版)【平安時代⑨ 摂関政治の全盛—藤原道長と頼通―】
目次―
1.摂関政治の特徴①:外戚政策の実施
2.摂関政治の特徴②:律令の枠内で展開
3.摂関政治の特徴③:先例・儀式重視の形式的な政治
4.摂関政治・摂関家の経済基盤
1.摂関政治の特徴①:外戚政策の実施
摂関政治を特徴づける第一の要素は、もちろん「外戚政策」です。
摂関政治を学修する際に必ず登場する単語ですから、その内容についてもだいたいお分かりかと思います。
教科書にはよく、「藤原氏は外戚政策を行うことで、天皇の摂政・関白となって政治の実権を握った」などと表記されています。
実際この記述は正しく、それ自体はみなさんよく理解されているところだと思われますが、
それでは、そもそもなぜ、藤原氏は外戚政策を行っただけで摂政・関白になれたのでしょうか。
そして、なぜ天皇家と外戚関係を構築することが、政治の実権の掌握に繋がったのでしょうか。
外戚政策について、まずもう一度、一から定義を確認してみましょう。
外戚政策は藤原氏北家だけでなく、古代より物部氏、蘇我氏、大伴氏など様々な氏族によって行われてきたものです。
自分の娘を天皇の后にし、生まれた皇子を次期天皇に据えることで、天皇の外祖父として摂政・関白の地位について政治の実権を握ろうとする政策のことを指しています。
(外祖父とは、ある人から見てその母親の父にあたる人物を指しています。)
では、どうして外祖父は、天皇の摂政・関白となりえたのでしょうか。
そのポイントは、古代から平安時代まで行われていたとされる「妻問婚」と呼ばれる婚姻形態にあります。
妻問婚とは、夫婦が結婚後も同居せず、夫が妻の実家に夜な夜な訪れることで関係が維持されるという婚姻形態です。
この家族形態のもとでは、妻が妊娠しやがて子供が生まれると、その子供は妻の実家で養育されるのが普通でした。
つまり、妻問婚に則った平安時代の世の中では、藤原氏を母に持つ天皇の皇子は妻の実家(すなわち藤原氏北家の家)で育てられたのです。
妻の実家なのですから、妻の父親も同じ家に住んでいます。生まれた皇子にとっては祖父ですね。
そうです、摂関政治を行うべく自分の娘を天皇に嫁がせた、あの外祖父も同じ家に住んでいるわけであります。
のちに天皇となるべき大事な子供ですからね、それはそれは、外祖父=おじいちゃんからも大切に育てられることでしょう。
やがてその皇子は、即位した後に、自分が小さい頃から見守ってきてくれた外祖父=おじいちゃんを摂政・関白に任命するわけであります。
この任命が進んで行われのか、はたまた嫌々行われたのかは、それぞれの外祖父と孫次第ですが、
いずれにしても、このように藤原氏の家のもとで育った皇子が、天皇となったのちも藤原氏の意向に従う・従わざるを得ないというのは、ある意味当然のことと言えるでしょう。
藤原氏が外祖父として権力を握ることができたのには、このような背景があったのです。
⇓⇓⇓「外戚政策」の仕組みや分かりやすい具体例、詳しくは以下の記事から!
【理由・仕組みを解説!】なぜ藤原氏は外戚政策を行うことで摂政・関白となれたのか?【ポイントは‘‘妻問婚‘‘】【サザエさんで考えろ!?】
2.摂関政治の特徴②:律令の枠内で展開
摂関政治の大事なポイントとして、2つ目に、摂関政治は律令=法律の枠内で運営されていたということが挙げられます。
いくら摂関政治といえども、国政の基本はこれまでと同じように太政官政治であり、その機構から逸脱しないような範囲で政治が行われていたわけです。
つまり、摂政や関白は、太政官政治や律令、ひいては天皇権威を否定を存在するような独裁者的な立場だったわけではなく、
それら既存の枠組みを上手く利用しながら政治の実権を握っていたのだと考えていただければいいでしょう。
(摂政・関白による「摂関政治」と上皇による「院政」は比較されがちで、入試問題でもしばしば問われますが、
律令の枠内で政治が運営されたという摂関政治のこの特徴は、律令に縛られることなく自由で私的な専制体制が敷かれていた院政と対照的です。)
これまでと同様に、重要政務は近衛府における陣定で話し合われ、その決定事項は宣旨や太政官符にて伝達されたといいます。
では、この太政官機構の中で、摂政・関白という役職のもと藤原氏北家は一体どのようにして権力を掌握したのでしょうか。
その答えは、摂政・関白に付随している「内覧」と呼ばれる機能にあります。
「内覧」とは、太政官から天皇に奏上されるべき文書を、その奏上前にあらかじめ内見することができる制度のことです。
この機能のもと、「あらかじめ」という表現からも明らかなように、摂政や関白は天皇に先立って文書を見ることが許され、その情報を把握することができたのでした。
天皇への奏上前に文書を予めチェックできたことで、藤原氏は天皇の目に触れる前に、
自らにとって都合が悪そうな採決を棄却したり、ないしは不利な事項を文書中から削除することができるようになりました。
さらに、場合によっては摂関自らが政務を処置したり、天皇にいいように働きかけることもできたことから、
間接的に天皇や他の公卿たちを統制することが可能となったのです。
「天皇の政治を補佐する」というのが摂政・関白のもともとの任務でしたが、この機能によって、
摂政・関白は政治を補佐するどころか実質的に政治の実権を掌握することができるようになったのでした。

3.摂関政治の特徴③:先例・儀式重視の形式的な政治
では、摂関政治では具体的にどのような革新が行われ、そして新たな制度が造られたのでしょうか。
残念ながら、これには答えようがありません。
というのも、摂関全盛期においては基本的に、先例や儀式が重視された形式的な政治が繰り返される一方であり、
積極的な改革や特筆すべき新制度の創設が行われることはなかったのです。
平安貴族たちに「よりよい政治を行って日本をよくしていこう!」といった意識は全くなく、その関心は個人や子孫の栄達に執着していました。
極論、「自分やその家族たちが繁栄し、幸せならそれでいい!」といったような、ある意味享楽的な、またある意味で非常に無責任な政治が蔓延していたのです。
国内政治が軽視されたことで、国内の政治は徐々に乱れ腐敗していったほか、
地方政治は国司(受領)に一任されていたために特に乱れ、これが武士発生要因の一つとなったとも言われています。
また、外交に関しても特に積極的な政策が行われることはなく、平安時代のこの頃、日本は東アジアにおいて孤立の一途を辿りました。
⇓⇓⇓国司の立場・役割の変容と地方政治の混乱についての詳しい記事はコチラから!
【官物・臨時雑役とは?】租税賦課方式の一大転換と国司の変容&‘‘売官売位‘‘の風潮【論述対策】
しかし、政治がおざなりにされたことで、日本特有の文化が大いに花開いたのもこのころでした。
いわゆる「国風文化」と呼ばれる文化ですね。
先例や儀式が重視されたことから、このころ多くの年中行事が発達し、平安貴族たちはそのような行事のたびに日記をつけて、
その形式や作法などを細かく記録し、自らの備忘録や子孫へのノウハウ本としました。
先例・儀式の重視は、言ってしまえば「去年と全く同じように、今年も全く同じことを繰り返す。」ことこそに重きを置いていることと同義であります。
平安時代のこのころの日記が数多く見つかるのはこのためです。
貴族たちは、自分たちの娘を教養のある人物に育て上げるべく、こぞって優秀な女房をつけました。
これが、平安時代時代における、かな文学や女流文学の隆盛に繋がります。
また、浄土教の普及や末法思想の流行も相まって、浄土を現世に再現するような絵巻物や建築美術もこのころ多く生まれました。
優雅で豊麗な日本独自の文化が花開いた、‘‘The 平安時代‘‘ とも形容できるような華やかな時代——
優美な平安貴族たちが太平の世を謳歌する、「平安時代」と聞いたときに多くの人が思い浮かべるような時代は、
藤原摂関期の全盛であった、まさにこのとき訪れたのです。
4.摂関政治・摂関家の経済基盤
さて、それでは最後に、摂関政治ひいては摂関家の経済基盤についてまとめましょう。
摂関家の貴族らしい華やかな生活、ないしは摂関政治の運営を支えた経済基盤は以下3つです。
黒板をご覧ください。

先に述べた通り、摂関政治は律令の枠内から逸脱することなく、むしろそれを上手く利用するような政治形態でありました。
そのため、当然ですが摂関家には律令官人としての莫大な収入があります。
律令官人の収入は、官職に応じて国家から給与される田地や禄などが主なものでしたが、
例えば藤原北家の当主ともなると、現在の貨幣価値に換算すると約3~5億円にもなる収入を国家から得ていたとも言われています。
「寄進地系荘園」からの収益も、藤原摂関家の繁栄を支えた経済基盤として、忘れることができないポイントです。
寄進地系荘園とは一体何か、ごく簡単に述べます。
10世紀以降、有力農民たちの中からは、土地経営の規模を拡大・強化してさらに力を付けていった「開発領主」と呼ばれる層が現れたのですが、
その後、私領の維持・拡大をめぐってその開発領主どうしの間で、また、土地への徴税をめぐって国司と開発領主との間では抗争が頻発するようになります。
そのため、開発領主の中には、より権威のある者の保護を求めるべく自らの土地を中下級貴族や寺社に対して名目上寄進する者が急増しました。
開発領主「(名目上)私の土地をあなたにあげ、お金も渡すから、他の開発領主や徴税攻勢を行ってくる国司から私の土地を守ってください!」
ということですね。
これによって成立したのが、いわゆる「寄進地系荘園」と呼ばれる土地です。
⇓⇓⇓寄進地系荘園や荘園公領制についての分かりやすい説明はコチラ!
藤原摂関家はその台頭の過程で、高位高官を独占し、さらにはこの寄進地系荘園を大量に集積することに成功しました。
これにより、大規模な経済基盤が確立されたのです。
なお、藤原摂関家が集積した大規模な荘園群は「殿下渡領」と呼ばれ、代々摂関の地位に就いた者の間で継承されていったといいます。
最後に、補足的かつ少々発展的ですが、藤原摂関家の収入の一つに、「成功」由来によるものがあったことも触れておきましょう。
平安時代の半ば頃、律令制の崩壊に伴い、徐々にいわゆる ‘‘売官売位‘‘ と呼ばれる風潮が広まっていきました。
文字通り、カネで官職や位をやり取りするような、腐敗した政治風潮が蔓延してしまっていたのです。
「成功(じょうごう)」は、この売官売位の風潮を表す概念の一つであります。
寺社の造営などに際し私財を朝廷に献じて、自分が希望する官職に任命されることをいいます。
平安時代半ば頃における律令制の崩壊と国司の立場・役割の変容に伴い、「国司」はそれまでと比べ物にならないほど儲かる官職となりました。
そして在任中に巨額の富を築く国司が増えるようになると、国司の地位は次第に利権化されるようになっていき、
やがて中央政界での出世を望めない中下級貴族たちは、争って国司になることを望むようになります。こうして、いわゆる ‘‘売官売位‘‘ と呼ばれる風潮が広まっていきました。
文字通り、カネで官職や位をやり取りするような、腐敗した政治風潮が蔓延してしまったのです。
「成功」は、この売官売位の風潮をよく表した概念です。
「成功(じょうごう)」とは、寺社の造営などに際し私財を朝廷に献じて、自分が希望する官職に任命されることをいいます。
⇓⇓⇓国司の立場・役割の変容は、10世紀半ばに徴税方式が転換されたことと大いに関係しています。詳しくは以下の記事から!
【官物・臨時雑役とは?】租税賦課方式の一大転換と国司の変容&‘‘売官売位‘‘の風潮【論述対策】
藤原摂関家は、その台頭の過程で官吏の人事権の掌握にまで成功してしまいました。
藤原氏の勢力が盤石なものであることから、ある程度以上の中央政界での出世を望めないと考えた中下級貴族たちは、
少しでも藤原氏といい関係を築こうとし、さらに自らの希望の官職に任命されたいがために、
人事権を握った藤原氏に「成功」としてカネを渡すようになります。
そういった構造が出来上がっていたため、「成功」も藤原氏の収入源の一つとなっていたのです。
いかがでしたか?
今回は、平安時代半ば頃において全盛期を迎えることとなった藤原氏による摂関政治について、
その運営の仕組み特徴、さらには経済基盤まで順々に解説していきました。
自分の言葉で繰り返しまとめてみながら、復習を進めていただけると幸いです。
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