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【菅原道真の生涯-後編-】道真の死後、京都で相次ぐ異変・・・怨霊化した道真の逆襲劇!天神信仰とは?なぜ学問の神様に?

更新日:2021年7月12日


△画像は『北野天神縁起絵巻』。天神となった道真が清涼殿に雷を落とすシーン


本記事は、道真の生涯に焦点を当てた、前編・後編のセット記事です。



よろしければ、まず以下の前編の記事からご覧ください。⇓⇓⇓

【菅原道真の物語-前編-】昌泰の変はなぜ発生した?ポイントは宇多&道真VS醍醐&時平の対立構造!大宰府での道真の生活は?






さて、昌泰の変の結果大宰府に左遷させられた菅原道真は、北九州の地で実質的な軟禁状態のなか侘しい生活を強いられ、左遷から2年後、その地で無念の死を遂げてしまいます。



しかし、道真の物語はここで終わりませんでした。



道真の死後しばらくしてから、京都では不穏な出来事が相次いで発生することとなるのです。



怨霊と化した道真の、逆襲撃が始まったのでした。



今回の記事の後編では、道真の死後に焦点を当てます。



道真の怨霊伝説や、道真の「天神」信仰が生まれた理由、学問の神様として崇められるようになった背景などを、詳しく紹介していきたいと思います!



目次―

〇前編

1.【宇多上皇&菅原道真】VS【醍醐天皇&藤原時平】の対立構造

2.左大臣時平-右大臣道真体制の成立

3.「昌泰の変」発生!その過程は?

4.「昌泰の変」のその後の朝廷

5.太宰府における道真の苦しい生活

〇後編

6.道真の怨霊化!京都で起こる不幸の数々・・・

7.清涼殿落雷事件の発生

8.日本三大怨霊の一人‘‘菅原道真‘‘の誕生

9.「天神信仰」はどのように生まれた?

10.「学問の神様」信仰はどのように生まれた?









 

6.道真の怨霊化!京都で起こる不幸の数々・・・

 


さて、道真が太宰府の地で無念の死を遂げてから、京都では数々の悲痛な出来事が起こります。



最初に犠牲となったのは、「昌泰の変」を起こした張本人の一人、藤原時平でした。



藤原時平が醍醐天皇に讒言をしたことによって、道真は罪を得、大宰権帥へと降格・左遷されたのは【前編】で述べた通りです。(讒言:他人を陥れるべく、ありもしない事実を作り上げて、目上の者に告げ口すること)



道真の左遷後、醍醐天皇のもとで諸政策を推進し「延喜の治」を行う立役者となっていた時平でしたが、バリバリ働いていた彼は909年に39歳の若さで突然病死してしまいます。



道真の死後、わずか数年のことでした。



続いて、913年には源光という人物が、鷹狩を行っている最中、不意に泥沼に落ちて溺死してしまいます。



実はこの人物も道真排斥首謀者の一人であり、事件後は道真に代わって右大臣のポストに就任した人物でした。



しかも、不気味なことに、そのまま彼の遺体が上がることはなかったといいます。



昌泰の変に関わった人物が2人も続いて亡くなったのです。



これは怖いですよね。。。






京都の不幸はこれだけにとどまりません。



923年には醍醐天皇の皇子であった保明親王が、次いで925年にはその息子で皇太孫であった慶頼親王が、次々と病死してしまいます。



保明親王は、昌泰の変の後に時平が醍醐天皇に入内させた妹・穏子と同天皇との間にできた子供でした。



すなわち、時平の甥にあたる人物ですね。



慶頼親王は醍醐天皇の孫であり、亡き保明親王に代わって皇太孫に立てられていた人物でしたが、慶頼親王も保明親王死後のわずか2年後に5歳の幼さでこの世を去ってしまいました。



このように、時平・源光に引き続いて、醍醐天皇の次の天皇になるべき人物まで2人も連続で亡くなってしまったのです。



これは。。。



これは不気味ですよね。。。



このように道真の死後、菅原道真の左遷に関わった人や、その親族たちに次々に不幸が訪れたのです。



当然ながら、朝廷にはだんだんと不穏な空気が漂っていくことになり、そしていつしか人々はこの一連の変異を、道真の怨霊による仕業なのではないかと考えるようになったのでした。




 

7.清涼殿落雷事件の発生

 


一連の出来事は怨霊化した道真によるものである――



930年、それを決定づけた事件が発生しました。



教科書などに出てくるような用語ではありませんが、一般に「清涼殿落雷事件」と呼ばれるものです。



概要を解説していきます。







この年930年、京都の平安京の周辺は深刻な干ばつに見舞われていました。



そのため、醍醐天皇のいる清涼殿において6月26日、この干ばつを止めるための雨乞いを行うべきかどうかの太政官会議が行われていたのです。



京都の周辺で干ばつだなんて、この時点でもうすでに不吉ですよね。。。



ところが、何というタイミングでしょう。このとき驚くことが起きました。



干ばつのために雨乞いをするかどうか、という会議をしているまさにその最中です。



平安京の上空をみるみるうちに黒い雲が立ち込め、やがて大雨が降りはじめたのでした。



貴族たちはもちろん大喜びです。



これで雨乞する必要はなくなったね~、一安心だね~、と。



おそらく、雨乞いの朝議も中断されたことでしょう。



しかし、朝廷の人々がほっと安堵したのも束の間のことでした。



大地を潤した大雨は、そののち異常なほどの豪雨となり、しかも雷まで鳴り始めたのです。



これまでの干ばつとは打って変わった集中豪雨に、人々の間には嬉しさから一転、不穏な空気が漂い始めました。



そして、雨が降り始めてから1時間半ほど経った時のことです。恐れていたことが起きてしまいます。



雷雨はさらに激しさを増し、朝廷の人々たちが会議を行っていた清涼殿、その南西の柱の一つに、雷が直撃したのでした・・・。







現代の建物であれば、雷は建物の避雷針に落ちた後、人為的に形成された電気の通りやすい経路を通って地面に抜けていくため、建物の中にいる人は安全です。



しかし、いくら立派な宮中の建物といっても、清涼殿は平安時代の建築物です。



当然のことながら避雷針のようなものはなく、さらに木造建築であったため、この落雷により、その柱の周辺にいた公卿・官人らを始め多くの負傷者が出てしまいました



ある者は胸や顔を焼かれて即死したほか、ある者は衣服に引火して大やけど負い、またある者は腹や脚を焼かれて大いに悶え苦しんだといいます。



さらにダメ押しのように、雷は隣の紫宸殿という建物にまで直撃し、貴族たちのみならず警備にあたっていた武士の中にも犠牲となる者が出てしまったのです。



平安時代の人々が、「穢れ」という観点から「死」を非常に忌み嫌っていたというのはみなさん周知の事実ですね。



そして、清涼殿は内裏を構成する殿舎の一つ、すなわち神聖な存在である天皇が生活を営む場所ですから、本来最も死者など出してはいけない場所でした。



負傷者の救護ももちろんのことですが、平安貴族たちは自分たちが最も恐れている「死」の穢れに直面し、現場は大混乱に陥ったのです。








天皇の御殿に、しかもちょうど天皇がいるタイミングで落雷が発生する。



これだけでも十分不吉ですが、そこに数人の犠牲者まで加わってしまったのです。



たとえ雷による直接的な被害を受けなかったとしても、朝廷内の人々の精神的ショックは計り知れないものだったでしょう。



そして、醍醐天皇もその心理的ストレスの被害者の一人となってしまいました。



清涼殿での惨状を目の当たりにした醍醐天皇は、その後体調を崩し、この事件からわずか3か月後に崩御されてしまったのです。



一説によると、醍醐天皇は雷によって焼死した遺体を直視してしまったとも言われています。



現代で言えば、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を起こした後に不眠や摂食障害が誘発され、健康を損なったとでも考えられましょう。



清涼殿に落雷したこともさることながら、それ以上に醍醐天皇の死は京都の人々に大きな衝撃を与えたのでした。





 

8.日本三大怨霊の一人 ‘‘菅原道真‘‘ の誕生

 

さて、以上に見たように、道真の死後京都では不吉な事柄が多々発生しました。



しかもそれにより、道真の左遷に関わった人物やその親類が多く犠牲になったのです。(涼殿の落雷の際にも、犠牲となった貴族の中にはかつて道真の左遷に協力した人物がいた)



このように、あまりに不気味な死が立て続けに発生したことで朝廷の人々は恐怖に震え上がり、そしてこれら一連の奇異を怨霊となった道真の祟りだと考えるようになったのでした。



無実を訴え続けハンガーストライキの末に壮絶な餓死を遂げた早良親王の怨霊もすさまじいものでしたが、その怨念をはるかに上回る圧倒的なパワーにより、道真は ‘‘日本三大怨霊‘‘ の一人として人々から大いに恐れられることになります



そして、以後100年近くの間、大災害が起きるたびにその原因は道真の祟りであるとされ、人々から畏怖の対象とされたのです。



(なお、‘‘日本三大怨霊‘‘の残り2人は、「平将門の乱」に敗れた平将門と、「保元の乱」に敗れた崇徳上皇です。)


⇓⇓⇓早良親王の怨霊についての記事はコチラから!

【理由を解説!】長岡京からすぐに平安京へと遷都されたのはなぜか?非業の死を遂げた早良親王の怨念?








怨霊の祟りを恐れた朝廷は、清涼殿落雷事件ののち、すぐさま道真の罪を許し、そしてその子供たちも流罪を解かれて京都に戻されます



さらに923年、死後でありながらも道真は大宰権帥(大宰員外師)からもとの右大臣へと官位を復され、その70年後の993年には左大臣、のち太政大臣という高官の贈位が行われたのです。



こうして、道真の名誉挽回がなされたのでした。






 

9.「天神信仰」はどのように生まれた?

 


さて、人々から大いに恐れられた道真の怨霊ですが、清涼殿落雷事件があったことにより、

道真の怨霊は「雷神」と結びつけられるようになっていきます



「道真は天に上ったのち、その怨霊が神を操る雷神となって雷を落としたのだ」「道真の怨霊が配下の雷神に雷を落とさせたのだ」



などの噂が人々の間でまことしやかにささやかれ、ここからいわゆる ‘‘天神‘‘ 信仰が生まれたのです。



そして、以後100年ほどの間は大災害が起こるたびに道真の怨霊によるものだと恐れられたほか、天の「機嫌」は一般庶民が営む農耕生活とも深くかかわるため、全国にこの天神信仰が広まることとなりました。








京都の「北野天満宮」は、朝廷が道真の怨霊を鎮めるために、10世紀半ばに創建されたものであると伝えられています。



東京都文京区の湯島天満宮、名古屋市の上野天満宮、太宰府市の太宰府天満宮など、日本各地には「天満宮」とよばれるお社がありますが、これらは菅原道真が「天神」として祀られているものです。



なお、この「天満宮」という名称の由来ですが、これは没後の道真を神格化したときの「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」という呼称からきていると言われています。



日本各地には、驚くほどたくさんの天満宮や天神社があります。



(一説によると、そのお社の数は数千とも!)



天神様を祀るこれらの神社の中には必ずしも道真と関係していないところもあるようですが、それでも全国にこれだけ多くのお社が創設されていることから、道真が古来より多くの人々の崇拝の対象となっていたことがうかがえますね。








余談ですが、自分のおばあちゃんは雷が鳴ると、よく「くわばらくわばら・・・」とおまじないを唱えています。



どうやら、その言葉を唱えることで、雷除けになるそうです。



なぜこのようなおまじないが生まれたのでしょう。



その背景には諸説ありますが、その中でも有力なものに、菅原道真の雷神伝説にちなんだものがあります。



天神となった道真の雷電はたびたび京都のあちこちを脅かしましたが、それでも京都の「桑原(くわばら)」という地域だけは、なぜか一度も落雷が起きることなく雷の災を受けなかったといいます。



どうやらここが、かつて道真の所領であり邸が置かれていたからだそうです。



この伝説から、「くわばらくわばら・・・」と唱えることにより、「ここは桑原だよ!」と天に対してアピールする―――



このような意図から、このおまじないは生まれたものであるそうです。(※諸説アリ)





 

10.「学問の神様」信仰はどのように生まれた?

 


さて、怨霊・天神として人々から畏怖の対象とされてきた死後の道真でしたが、やがて時が流れて災害や変異が風化していくようになると、怨霊化した道真の「恐怖」というイメージは少しづつ人々から忘れ去られていきます。



そして、菅原氏が代々学者の家系であり、さらに生前に文章博士であった道真自身も学問に非常にすぐれていたことから、やがてその面のみがクローズアップされるようになり、いつしか道真=天神様は学問の神様としてあがめられるようになっていったのです。



現代において多くの受験生が全国の天満宮・天神様に合格祈願のお参りをするのは、このような背景があったのでした。



道真の魂は、人々に災いを起こす畏怖の対象から、勉強をする人々の守護神に変化したのです。





 
いかがでしたか?


今回では、【前編】【後編】の2記事にわたって、菅原道真の生涯とその死後について追っていきました。



菅原氏という代々学者の家系に生まれた道真は幼いころから学問に優れていたようで、文章博士となったのちは、その勉学の才をもって平安時代の朝廷政治において様々な改革を実行しました。



しかし、藤原氏や天皇の陰謀により、政治的に不遇な左遷をさせられた道真は、京都から遠く離れた太宰府の地で、無念の最期を遂げたのです。



しかし、道真の物語はそれだけでは終わりません。



道真の死後、道真の左遷に関わった人々の間で不幸が相次いだことから、「怨霊」と化した道真のまで、京都の人々を震え上がらせることとなります。



以降100年間ほどは大災害が起こるたびに、‘‘天神‘‘ 道真の仕業ではないかと騒がれ人々の畏怖の対象となるのですが、



やがて不幸や災害が風化していくと、今度は生前の道真に関して勉学の才の側面がクローズアップされるようになり、こうして道真への信仰は「学問の神様」へと変化して現代にまで至ります。



菅原道真という一人の人物は、1000年近くもの間、日本人の生活において大きな影響を与えたのでした。



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