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【菅原道真の生涯-後編-】道真の死後、京都で相次ぐ異変・・・怨霊化した道真の逆襲劇!天神信仰とは?なぜ学問の神様に?

更新日:7月12日


△画像は『北野天神縁起絵巻』。天神となった道真が清涼殿に雷を落とすシーン


本記事は、道真の生涯に焦点を当てた、前編・後編のセット記事です。



よろしければ、まず以下の前編の記事からご覧ください。⇓⇓⇓

【菅原道真の物語-前編-】昌泰の変はなぜ発生した?ポイントは宇多&道真VS醍醐&時平の対立構造!大宰府での道真の生活は?






さて、昌泰の変の結果大宰府に左遷させられた菅原道真は、北九州の地で実質的な軟禁状態のなか侘しい生活を強いられ、左遷から2年後、その地で無念の死を遂げてしまいます。



しかし、道真の物語はここで終わりませんでした。



道真の死後しばらくしてから、京都では不穏な出来事が相次いで発生することとなるのです。



怨霊と化した道真の、逆襲撃が始まったのでした。



今回の記事の後編では、道真の死後に焦点を当てます。



道真の怨霊伝説や、道真の「天神」信仰が生まれた理由、学問の神様として崇められるようになった背景などを、詳しく紹介していきたいと思います!



目次―

〇前編

1.【宇多上皇&菅原道真】VS【醍醐天皇&藤原時平】の対立構造

2.左大臣時平-右大臣道真体制の成立

3.「昌泰の変」発生!その過程は?

4.「昌泰の変」のその後の朝廷

5.太宰府における道真の苦しい生活

〇後編

6.道真の怨霊化!京都で起こる不幸の数々・・・

7.清涼殿落雷事件の発生

8.日本三大怨霊の一人‘‘菅原道真‘‘の誕生

9.「天神信仰」はどのように生まれた?

10.「学問の神様」信仰はどのように生まれた?









6.道真の怨霊化!京都で起こる不幸の数々・・・



さて、道真が太宰府の地で無念の死を遂げてから、京都では数々の悲痛な出来事が起こります。



最初に犠牲となったのは、「昌泰の変」を起こした張本人の一人、藤原時平でした。



藤原時平が醍醐天皇に讒言をしたことによって、道真は罪を得、大宰権帥へと降格・左遷されたのは【前編】で述べた通りです。(讒言:他人を陥れるべく、ありもしない事実を作り上げて、目上の者に告げ口すること)



道真の左遷後、醍醐天皇のもとで諸政策を推進し「延喜の治」を行う立役者となっていた時平でしたが、バリバリ働いていた彼は909年に39歳の若さで突然病死してしまいます。



道真の死後、わずか数年のことでした。



続いて、913年には源光という人物が、鷹狩を行っている最中、不意に泥沼に落ちて溺死してしまいます。



実はこの人物も道真排斥首謀者の一人であり、事件後は道真に代わって右大臣のポストに就任した人物でした。



しかも、不気味なことに、そのまま彼の遺体が上がることはなかったといいます。



昌泰の変に関わった人物が2人も続いて亡くなったのです。



これは怖いですよね。。。






京都の不幸はこれだけにとどまりません。



923年には醍醐天皇の皇子であった保明親王が、次いで925年にはその息子で皇太孫であった慶頼親王が、次々と病死してしまいます。



保明親王は、昌泰の変の後に時平が醍醐天皇に入内させた妹・穏子と同天皇との間にできた子供でした。



すなわち、時平の甥にあたる人物ですね。



慶頼親王は醍醐天皇の孫であり、亡き保明親王に代わって皇太孫に立てられていた人物でしたが、慶頼親王も保明親王死後のわずか2年後に5歳の幼さでこの世を去ってしまいました。



このように、時平・源光に引き続いて、醍醐天皇の次の天皇になるべき人物まで2人も連続で亡くなってしまったのです。



これは。。。



これは不気味ですよね。。。



このように道真の死後、菅原道真の左遷に関わった人や、その親族たちに次々に不幸が訪れたのです。



当然ながら、朝廷にはだんだんと不穏な空気が漂っていくことになり、そしていつしか人々はこの一連の変異を、道真の怨霊による仕業なのではないかと考えるようになったのでした。




7.清涼殿落雷事件の発生



一連の出来事は怨霊化した道真によるものである――



930年、それを決定づけた事件が発生しました。



教科書などに出てくるような用語ではありませんが、一般に「清涼殿落雷事件」と呼ばれるものです。



概要を解説していきます。