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【菅原道真の物語-前編-】昌泰の変はなぜ発生した?ポイントは宇多&道真vs醍醐&時平の対立構造!大宰府での道真の生活は?

更新日:7月12日



(※画像は左が菅原道真。残り3つが現在の太宰府天満宮。)




さて、宇多天皇の譲位に伴って即位した醍醐天皇も、自ら親政を行うようになります。



いわゆる「延喜の治」――後世において理想視された天皇親政の世が訪れるのでした。



しかし、いくら天皇親政といっても、当初醍醐天皇は、なかなか自分の思ったように政治が行えなかったといいます。



理由は宇多上皇の存在でした。



宇多は上皇となったのちも、しばらくの間は国政に大いに絡み、醍醐天皇の治世に対してあれこれ口出ししてきたようです。



そして、もう一つには菅原道真の存在がありました。



宇多天皇は譲位する際、醍醐天皇に対して道真を重用することを強く求め、上皇となったのちも道真の後ろ盾となり、彼を大いにバックアップしたのです。



自分よりも30歳近く年上の大御所であった菅原道真は、醍醐天皇が親政を行う上で大きな障害となったのでしょう。



こうした中、醍醐天皇と同じように道真の台頭に対して不満を持っていた藤原時平がやがて醍醐天皇と結びつくようになり、「昌泰の変」――道真の大宰府左遷――が発生してしまうのでした。



宇多天皇は菅原道真のことを高く評価し、重く用いていましたが、皮肉なことに宇多天皇のこの過度の信任が道真の左遷へと繋がってしまうのです・・・。







今回の記事は、「菅原道真の生涯」に焦点を当てた、前編・後編のセット記事です!



前編では、道真が左遷させられる「昌泰の変」に至るまでの過程・背景や理由、さらには大宰府における道真の生活について。



後編では、道真死後のお話。すなわち道真の怨霊伝説や、道真の「天神」信仰が生まれた理由、学問の神様として崇められるようになった背景までなどなど。



2記事にわたって道真の生涯を詳しく解説していきたいと思います!



目次―

〇前編

1.【宇多上皇&菅原道真】VS【醍醐天皇&藤原時平】の対立構造

2.左大臣時平-右大臣道真体制の成立

3.「昌泰の変」発生!その過程は?

4.「昌泰の変」のその後の朝廷

5.太宰府における道真の苦しい生活





1.【宇多上皇&菅原道真】VS【醍醐天皇&藤原時平】の対立構造



宇多上皇は譲位した後も上皇として国政において相当な影響力を持っていたようで、「延喜の治」といってもその当初は、醍醐天皇の意見がストレートに通らないこともしばしばあったそうです。



藤原氏北家の勢力を抑圧する」という宇多のスタンスは上皇となったのちも変わらず、宇多天皇は醍醐天皇に譲位する際、醍醐天皇に対して道真を重用することを強く求めました。



そして自身が上皇となってからも、時平の独走を防ぐべく、道真の後ろ盾となって彼を大いにサポートしたと言われています。



道真は後援者である宇多上皇に政務を相談し、そして宇多上皇は自分の信頼する道真に政務を任せるよう、醍醐天皇に働きかけたのです。



しかし、当の醍醐天皇は、後に天皇親政を行うようなアグレッシブな人でした。



言ってみれば、「政治は道真に任せなさい」などというお父さんの意見は、醍醐天皇にとって耳障りなものだったのでしょう。



表面化こそしていませんが、自分で政治を行いたい醍醐天皇と、とやかく口出ししてくる宇多上皇との間には、政治方針に大きなズレができていたのです。



そして実際に、宇多上皇という強力な後ろ盾のもと道真は自らどんどん政務を推進したほか、政治の相談をする際も、天皇である自分ではなくバックアップしてくれている上皇を頼るようになっていたといいます。



醍醐天皇にとって、やはりこの状況もおもしろいものではなかったでしょう。



まだまだ若かった醍醐天皇にとって、道真の存在はきっと快いものではなかったに違いありません。







もう一人、宇多上皇と道真のことを快く思っていない人物がいました。



もちろん時平のことです。



藤原氏北家の再繁栄を目指す時平にとっても、学者ながら重く用いられ、朝廷内における影響力を強めてきた道真の存在は目障りなものでした。



そして、「寛平の治」において、宇多天皇が藤原氏北家の抑圧政策を行っていたために、宇多天皇(上皇)と時平の関係性は微妙なものでありました。



こうしていつの間にか、【宇多上皇&菅原道真】VS【醍醐天皇&藤原時平】という二派の対立構造が出来上がってしまっていたのです。




2.【左大臣時平-右大臣道真】体制の成立



899年――醍醐天皇が即位してから4年後のことです――時平は左大臣に任命されました。



まだまだ若かった時平ですが、さすが藤原氏北家という家柄出身なだけあり、実際に有能な政治家であったようです。



宇多天皇の治世のときから順調に昇進を重ねて来て、このときついに太政官のトップに躍り出たのでした。



しかし、このときビックリすることが起きてしまいます。



時平が左大臣に任命されると同時に、菅原道真が右大臣に任命されたのです。



当時の朝廷・平安貴族たちは大変驚きました。