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【菅原道真の物語-前編-】昌泰の変はなぜ発生した?ポイントは宇多&道真vs醍醐&時平の対立構造!大宰府での道真の生活は?

更新日:2021年7月12日



(※画像は左が菅原道真。残り3つが現在の太宰府天満宮。)




さて、宇多天皇の譲位に伴って即位した醍醐天皇も、自ら親政を行うようになります。



いわゆる「延喜の治」――後世において理想視された天皇親政の世が訪れるのでした。



しかし、いくら天皇親政といっても、当初醍醐天皇は、なかなか自分の思ったように政治が行えなかったといいます。



理由は宇多上皇の存在でした。



宇多は上皇となったのちも、しばらくの間は国政に大いに絡み、醍醐天皇の治世に対してあれこれ口出ししてきたようです。



そして、もう一つには菅原道真の存在がありました。



宇多天皇は譲位する際、醍醐天皇に対して道真を重用することを強く求め、上皇となったのちも道真の後ろ盾となり、彼を大いにバックアップしたのです。



自分よりも30歳近く年上の大御所であった菅原道真は、醍醐天皇が親政を行う上で大きな障害となったのでしょう。



こうした中、醍醐天皇と同じように道真の台頭に対して不満を持っていた藤原時平がやがて醍醐天皇と結びつくようになり、「昌泰の変」――道真の大宰府左遷――が発生してしまうのでした。



宇多天皇は菅原道真のことを高く評価し、重く用いていましたが、皮肉なことに宇多天皇のこの過度の信任が道真の左遷へと繋がってしまうのです・・・。







今回の記事は、「菅原道真の生涯」に焦点を当てた、前編・後編のセット記事です!



前編では、道真が左遷させられる「昌泰の変」に至るまでの過程・背景や理由、さらには大宰府における道真の生活について。



後編では、道真死後のお話。すなわち道真の怨霊伝説や、道真の「天神」信仰が生まれた理由、学問の神様として崇められるようになった背景までなどなど。



2記事にわたって道真の生涯を詳しく解説していきたいと思います!



目次―

〇前編

1.【宇多上皇&菅原道真】VS【醍醐天皇&藤原時平】の対立構造

2.左大臣時平-右大臣道真体制の成立

3.「昌泰の変」発生!その過程は?

4.「昌泰の変」のその後の朝廷

5.太宰府における道真の苦しい生活





 

1.【宇多上皇&菅原道真】VS【醍醐天皇&藤原時平】の対立構造

 


宇多上皇は譲位した後も上皇として国政において相当な影響力を持っていたようで、「延喜の治」といってもその当初は、醍醐天皇の意見がストレートに通らないこともしばしばあったそうです。



藤原氏北家の勢力を抑圧する」という宇多のスタンスは上皇となったのちも変わらず、宇多天皇は醍醐天皇に譲位する際、醍醐天皇に対して道真を重用することを強く求めました。



そして自身が上皇となってからも、時平の独走を防ぐべく、道真の後ろ盾となって彼を大いにサポートしたと言われています。



道真は後援者である宇多上皇に政務を相談し、そして宇多上皇は自分の信頼する道真に政務を任せるよう、醍醐天皇に働きかけたのです。



しかし、当の醍醐天皇は、後に天皇親政を行うようなアグレッシブな人でした。



言ってみれば、「政治は道真に任せなさい」などというお父さんの意見は、醍醐天皇にとって耳障りなものだったのでしょう。



表面化こそしていませんが、自分で政治を行いたい醍醐天皇と、とやかく口出ししてくる宇多上皇との間には、政治方針に大きなズレができていたのです。



そして実際に、宇多上皇という強力な後ろ盾のもと道真は自らどんどん政務を推進したほか、政治の相談をする際も、天皇である自分ではなくバックアップしてくれている上皇を頼るようになっていたといいます。



醍醐天皇にとって、やはりこの状況もおもしろいものではなかったでしょう。



まだまだ若かった醍醐天皇にとって、道真の存在はきっと快いものではなかったに違いありません。







もう一人、宇多上皇と道真のことを快く思っていない人物がいました。



もちろん時平のことです。



藤原氏北家の再繁栄を目指す時平にとっても、学者ながら重く用いられ、朝廷内における影響力を強めてきた道真の存在は目障りなものでした。



そして、「寛平の治」において、宇多天皇が藤原氏北家の抑圧政策を行っていたために、宇多天皇(上皇)と時平の関係性は微妙なものでありました。



こうしていつの間にか、【宇多上皇&菅原道真】VS【醍醐天皇&藤原時平】という二派の対立構造が出来上がってしまっていたのです。




 

2.【左大臣時平-右大臣道真】体制の成立

 


899年――醍醐天皇が即位してから4年後のことです――時平は左大臣に任命されました。



まだまだ若かった時平ですが、さすが藤原氏北家という家柄出身なだけあり、実際に有能な政治家であったようです。



宇多天皇の治世のときから順調に昇進を重ねて来て、このときついに太政官のトップに躍り出たのでした。



しかし、このときビックリすることが起きてしまいます。



時平が左大臣に任命されると同時に、菅原道真が右大臣に任命されたのです。



当時の朝廷・平安貴族たちは大変驚きました。



平安の当時において、学者という身分の者が左右大臣に昇進してしまうなんてことは異例の事態だったのです。



この破格の出世の裏にはもちろん、宇多上皇の見えない圧力が働いています。



いくら左大臣の方が立場は上であるといっても、藤原氏北家の再繁栄を目指す時平にとって、やはり右大臣にまで上り詰めた道真の存在は脅威そのものでした。



と、同時に、藤原氏以外の有力貴族たちの間でも、儒家としての家格を超えた道真の出世に対して批判的な意見がしばしば発せられたといいます。



学者という立場でありながら異常な出世を果たしてしまった道真は、貴族たちから妬みの対象となり、次第に反感を買うようになってしまったのです。








宇多上皇は醍醐天皇に位を譲ってからも、道真の後ろ盾となり国政に大きく絡んでいたというのは先ほど述べた通りですが、実は一方で上皇になってからというもの、次第に仏教に傾倒し始めていました。



そして、道真が右大臣に任命されて朝廷で反感を買うようになってしまったのと同じ年、899年10月に宇多上皇は突如出家してしまいます



このことは道真にとって大きな衝撃でした。



出家を果たしてしまった宇多上皇が、もはや国政で大きな存在感を示すことはできません。



仏門に入った宇多上皇は徐々に影響力を失っていき、道真に対する援助も十分に行えなくなってしまったといいます。



宇多上皇という最大の後ろ盾を失いつつあった道真は、とうとう朝廷内で孤立気味になってしまったのです。



「昌泰の変」が発生したのは、ここからわずか2年後のことでした――




 

3.「昌泰の変」発生!その過程は?

 


影の権力者であった宇多上皇が出家したことにより、【醍醐天皇&藤原時平】ペアに怖いものはなくなりました。



899年頃を境として、ここから道真排斥への動きが加速していくこととなるのです。



そして902年、ついに事件は起こります。



道真が、醍醐天皇を廃して斉世親王を即位させようとしている」――なんの根拠もないこのような風説が宮廷に流れてしまったのです。



斉世親王とは、醍醐天皇の弟であり、道真の娘の夫(すなわち、道真が外祖父)にあたる人物でした。



「道真が醍醐天皇に代わって、自分の娘の旦那を天皇にしようとしているとたくらんでいる」ということですね。



よく教科書などには「時平の讒言(ざんげん)によって道真が左遷された」との表記が見られますが、噂の出どころはどうやら時平の讒言だったのでしょう。(「讒言」・・・他人を陥れるべく、ありもしない事実を作り上げて、目上の者に告げ口すること)



そして、この風説を受け入れた醍醐天皇は、突如、道真に左遷を言い渡します。



身に覚えのない道真は大いに驚き、狼狽しますが、天皇の命令です。



もはやどうすることもできません。



こうして、道真は大宰権帥(だざいごんのそち)へと左遷させられてしまったのでした。



(大宰権帥とは、‘‘遠の朝廷‘‘ である大宰府におけるNo.2のポジションですが、右大臣として中央でバリバリ働いていた道真にとって、これは明らかな左遷・降格でした。)






901年に勃発した、この一連の道真排斥事件こそが「昌泰の変」と呼ばれるものです。



藤原氏北家にとって、台頭・発展の大きな障害となる菅原道真が排斥されたことから、藤原氏北家による他氏排斥事件の一つであるとされています。



醍醐天皇が本当に道真の嫌疑を以て道真の左遷を決定したのか、はたまたはじめから時平と醍醐天皇による自作自演であったのか、これに関しての真相はまだ明らかにされていません。



しかし、これまで述べてきたように、時平のみならず醍醐天皇自身も、道真に対して密かに不満をもっていたことが考えられます。



このことからもこの事件は、菅原道真を政治の場から追い出すために、時平と醍醐天皇らが起こした陰謀であったのだという意見が近年有力であるようです。



最初から時平と醍醐天皇は組んでおり、醍醐天皇は時平の述べたことが嘘であると知りながら、意図的に道真を左遷したということですね。



道真の左遷を聞いた宇多上皇は大いに驚き、醍醐天皇に説得を試みるべくすぐさま宮中に赴いたのですが、宇多が「中に入れて醍醐天皇に合わせてくれ!」とどんなに訴えても、醍醐天皇は宇多との面会を拒み、その宮門は固く閉ざされたままであったといいます。



そして、その扉の向こうで、道真への処分が決定されてしまったのです。



このエピソードからもやはり、宇多上皇と道真の政治的影響力を排除することを目論む、醍醐天皇と時平の黒い陰謀が見て取れるような気がします。



なお、同様に道真の息子も流刑に処されたほか、道真門弟の貴族たちも左遷など厳しい処罰を受けたといいます。



このように、道真一派を排斥すべく、醍醐と時平による処断は徹底的に行われたのでした。





 

4.「昌泰の変」のその後の朝廷

 


さて、宇多上皇が出家を果たし、昌泰の変にて道真が左遷されたいま、もはや醍醐天皇と時平にとって邪魔な存在はいなくなりました。



「延喜の治」と呼ばれる醍醐天皇の親政が本格的に始まるのは、ここからだと考えていただいてよいでしょう。



昌泰の変が起こった後すぐ、同年901年には、時平の妹である穏子が醍醐天皇の女御として入内しています。



穏子の立場は後に中宮へと格上げされたのですが、この昌泰の変をきっかけにして、これまで宇多上皇が採ってきた藤原氏抑制政策の転換がなされたと考えることもできるでしょう。



藤原氏の抑圧を目指してきた宇多天皇(上皇)と対照的に、醍醐天皇は藤原氏と連携を取ることによって政権の安定化を図ろうとしたのです。





 

5.太宰府における道真の苦しい生活

 


東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ



春になって東風(こち)が吹いてきたならば、ちゃんと花を咲かせてくれ、梅の花よ。主人である私がいなくなってしまったからといって、春の到来を忘れないでおくれ――



もしかすると、古文で習ったことがある方も多いかもしれませんね。



〇「吹かば」:動詞「吹く」の未然形+接続助詞の「ば」

 →接続助詞「ば」は未然形接続だと「仮定:もし~なら」の意味になる

〇「春な忘れそ」:副詞の「な」と終助詞「そ」が呼応

 →「な~そ」という形で「~してくれるな」という意味になる



といったように、これさえ覚えておけば大学受験古文における重要文法事項が一気に2つも抑えられるというお得な一句ですが、実はこの句は大宰府への左遷が決定された道真が京都を去るときに詠んだものだと言われています。



道真は昔から梅の花が大好きで、自分の屋敷の庭でも立派な梅の木を育てていたのですが、自邸を離れるとき、自分がこれまで愛でてきたその梅の木との別れを惜しみこの句を語りかけるように詠んだのでした。



梅の花への愛情とともに別れの悲しみが織り込まれた、惜別の歌だったのです。



実はこの梅にはおもしろい伝説があります。



飛梅伝説」と呼ばれるものです。



それによると、庭の木々たちは自分を愛してくれた道真のことを大いに慕っていて、主人である道真が京都を離れることを知ってからというもの、悲しみに暮れ、中にはみるみるうちに葉を落とし枯れてしまうものもあったといいます。



しかし、梅の木は主人を思う気持ちの強いあまり、大宰府に赴いた道真の後を追うように、ついには空へと飛んでいってしまったのです。



そして、梅の木は見事、一夜で主人の暮らす大宰府の地まで飛んでいき、その地に再び根を下ろしたといいます。



これが飛梅伝説です。



そのときに飛んできた梅だと言われているもののうち、最も有名なものが、現在でも太宰府天満宮の本殿横で毎年立派に花を咲かせる梅の木です。



もともとこの ‘‘飛梅‘‘ の木は榎社という神社(後述します)の境内にあったようですが、太宰府天満宮が造営されると、本殿横の現在の位置に移植されたと言われています。




△太宰府天満宮 本殿横の「飛梅」


太宰府での道真の生活はとても苦しいものでした。



道真が「大宰権帥」と呼ばれる、大宰府におけるNO.2のポストへと降格されたのは先ほど述べた通りですが、実は大宰権帥という役職はこれまでも中央で失脚した者の左遷先となったことが多々あり、そのような貴族たちは大宰員外帥と呼ばれ、正規の権帥とは区別されたといいます。



そのため、道真の就いた大宰員外帥という役職とは実質的に名ばかりのものであり、大宰府本庁に入れないばかりか、給与も従者も与えられませんでした。



道真に住居として与えられたのは、大宰府の南の方にある荒れ放題で放置されていた荒屋(榎社と呼ばれる小さな神社)だったそうで、道真はそこで、これまで京都で送っていた生活とはうってかわった侘しい生活を強いられたのです。



しかも、道真暗殺を謀って時平によって送り込まれたという刺客が絶えずこの住居の周辺を徘徊していたこともあり、道真は囚人同様の、実質的な軟禁状態にあったといわれています。



衣食もままならぬ厳しい生活の中、みるみるうちに道真の身体はやせこけ、白髪も大いに増えていき、やがて健康も損なっていきました。



それでも道真は自身の潔白を天に訴え続け、仏教に帰依し、仏に合掌したのです。







そして903年――左遷からわずか2年後のことです――道真は齢59歳にしてその生涯を閉じることとなります。



もう一度京都に戻りたい――最期までその思いを抱いたまま、失意のうちに、道真は儚い最後を迎えたのでした。



ここまで、栄華と苦難に満ちた道真の波乱万丈の人生を追ってきましたが、道真の物語はここで終わりではありません。



道真の死後しばらくしてから、京都では不可思議な不幸や異変が相次いで発生したのです。



怨霊化した道真の逆襲撃が始まるのでした。





⇓⇓⇓後編へと続きます!

【菅原道真の生涯-後編-】道真の死後、京都で相次ぐ異変・・・怨霊化した道真の逆襲劇!天神信仰とは?なぜ学問の神様に?



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