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なぜ藤原氏は外戚政策を行うことで摂政・関白となれたのか?【サザエさんで考えろ!?】【ポイントは‘‘妻問婚‘‘】【理由・仕組みを解説!】

更新日:2021年7月12日








藤原氏北家による摂関政治を学習していくときに、必ず登場する語句が「外戚政策」です。



「自分の娘や妹を天皇の嫁にすることで、天皇家と親戚関係を構築して政治の実権を握る」ことこそ外戚政策の大枠ではありますが、



ではいったい、どうして天皇家と外戚関係を構築することが実権の掌握に繋がるのでしょうか。



そして、どうして皇室と外戚関係を構築するだけで摂政・関白となれたのでしょうか。



「外戚政策」は、言葉では理解しているようなつもりでも、案外盲点になっていることが多い歴史事項です。



今回の記事では、この外戚政策についてもう一度おさらいするとともに、摂関家の政治における実権掌握の過程やその理由について、今一度確認していきたいと思います!



⇓⇓⇓当授業該当ノートはコチラ!

授業ノート【平安時代④ 藤原氏北家の台頭と摂関政治のはじまり】




目次―

1.外戚政策についてもう一度確認!

2.摂関政治の必要条件:娘・妹の存在と皇子の誕生

3.どうして外祖父は摂政・関白になれたのか?ポイントは「妻問婚」。

4.摂関政治・外戚政策を「サザエさん」で考えてみる





 

1.外戚政策についてもう一度確認!

 

外戚政策について、もう一度、一から定義を確認してみましょう。



外戚政策は藤原氏北家だけでなく、古代より物部氏、蘇我氏、大伴氏など様々な氏族によって行われてきたものです。



娘を天皇の后にし、生まれた皇子を次期天皇に据えることで、天皇の外祖父として摂政関白の地位について政治の実権を握ろうとする政策のことを指しています。



少し耳馴染みのない言葉がありますね、「外祖父」です。



外祖父とは、ある人から見て、その母親の父にあたる人物を指しています。



つまり、ある子供にとって母方の祖父にあたる人物です。



外戚政策にしたがって考えてみれば、のちに次期天皇となる皇子にとって、母方の祖父にあたる人物が摂政・関白となるのですね。



外祖父が摂政・関白となって権力を握るまでの過程です。黒板をご覧ください。






例えば、藤原氏北家の台頭の礎を築いた藤原良房を例に出して考えてみます。



①良房は自分の娘である明子文徳天皇に入内させ、皇室と外戚関係を構築します。

②やがて、明子と文徳天皇の間に、皇子である惟仁親王が生まれます。

③この惟仁親王を皇太子に据えます。

④文徳天皇に代わり、この惟仁親王が清和天皇として即位します。

⑤清和天皇の摂政として、良房が政治の実権を握ります。



といった具合ですね。



この場合だと、惟仁親王(清和天皇)から見て、良房は母方の祖父、すなわち外祖父にあたるわけです。






 

2.摂関政治の前提条件:娘の存在と皇子の誕生

 

ここで、摂関政治において前提となる条件がいくつか見えてきます。



まず、外戚関係を構築するにあたって、娘の存在が必須になります。



しかも天皇に振り向いてもらえるよう、容姿が美しく、さらに教養も身についている魅力的な女性であることが必要です。



そのために貴族たちは、自分の娘や妹の教育に力を入れたのでした。



具体的には彼女らが詩歌管弦などの教養を身につけられるよう、優秀な家庭教師として女房を仕えさせたのです。



しかし、念願叶って娘や妹を天皇に嫁がせることに成功したとしても、それが十分条件にはなりません。



次期天皇となる皇子が生まれなければ全てが水の泡です。



しかも、やはり天皇にするということを考えたときには、やはり可能性的に男児の皇子が生まれてほしいわけです。



そして、その後皇子が無事に育っていって、次期天皇となって初めて、ようやく摂関政治が行えるようになります



摂関政治を行うに当たっては、このように厳しい条件を――しかもかなり長い期間を要する――順順にクリアしていくことが求められてたのでした。



藤原氏北家が台頭したのは、この外戚政策に成功したのが大きな要因でしたが、一方で没落したのも、この外戚政策に失敗したことが要因でした。



藤原氏北家の絶頂期の時代であったとよく言われるのが、道長とその息子頼通の時期ですね。



そんな絶頂の時期にあった頼通の時代に、藤原氏北家が衰退の一途を辿るようになってしまった原因は、頼通の娘(寛子)と天皇(後冷泉天皇)との間に皇子が生まれなかったためでした。





 

3.どうして外祖父は摂政・関白になれたのか?ポイントは「妻問婚」!

 

では、どうして外祖父は天皇の摂政・関白となりえたのでしょうか。



そのポイントは、「妻問婚」と呼ばれる婚姻形態にあります。



妻問婚とは、夫婦が結婚後も同居せず、夫が妻の実家に夜な夜な訪れることで関係が維持されるという婚姻形態です。



古代から平安時代の前期頃――すなわち藤原氏の摂関政治が行われていた頃――までごく一般的に行われていたといいます。



この家族形態のもとでは、妻が妊娠してやがて子供が生まれると、その子供は妻の実家で養育されるのが普通でした。



このことから、藤原氏を母に持つ皇子も、妻の実家(すなわち藤原氏北家の家)で育てられたのです。



妻の実家なのですから、当然妻の父親も同じ家に住んでいます。子供にとっては外祖父ですね。



そうです、摂関政治を行うべく自分の娘を天皇に嫁がせた、あの外祖父も同じ家に住んでいるわけであります。



のちに天皇となるべき大事な子供ですからね、それはそれは、外祖父=おじいちゃんからも大切に育てられることでしょう。



やがてその皇子は、即位した後に、自分が小さい頃から見守ってきてくれた外祖父=おじいちゃんを摂政・関白に任命するわけであります。



この任命が進んで行われのか、はたまた嫌々行われたのかは、それぞれの外祖父と孫次第ではあります。



しかしながらいずれにしても、このように藤原氏の家のもとで育った皇子が、天皇となったのちも藤原氏の意向に従う・従わざるを得ないというのは、ある意味当然のことと言えるでしょう。



藤原氏が外祖父として権力を握ることができたのには、このような背景があったのです。



なお、もう少しだけ時代が進むと、天皇の皇后の場合に限っては妻問婚ではなく、礼式を整えて宮中に参入する=入内することも多くあったといいますが、それでも子供を産むときや養育するときは実家に帰るケースが多かったといいます。



そしてその場合でも、やはり皇子は藤原氏によって養育されるので、同じ帰結に至るわけです。





 

4.摂関政治・外戚政策を「サザエさん」で考えてみる

 

ある国民的アニメを具体例に挙げることで、非常に分かりやすくなります。



それが、「サザエさん」です。



サザエさんファミリーを、平安前期~中期の摂関政治の時代に当てはめてみましょう。



まず、マスオさんが天皇であるとします。



そして、波平さんが藤原氏北家の大臣であるとします。



今後外戚政策を行うことで権力を得たいと考えた波平大臣は、自分の娘であるサザエさんをマスオ帝に嫁がせたいと考えました。



そして努力の末に念願叶い、波平大臣は娘・サザエさんをマスオ帝の皇后にすることに成功しました。



その後、ついに、マスオ帝と皇后サザエの間に皇子が生まれます。待望の男の子です。



男児の方が天皇になる可能性は高かったので、当然波平大臣としては大喜びです。



妻問婚の世の中なので、タラ皇太子は母親の実家、すなわち外祖父である波平大臣の家で育てられることになりますね。



漫画・アニメ版のサザエさんでもそうであるように、タラちゃんは優しいおじいちゃんである波平さんにどんどん懐いていきます。



さて、そして時は経ち、マスオ帝が崩御しました。



新しい天皇を立てるときがやってきたのです。こうして、新天皇としてタラ帝が即位しました。



タラ帝は新たに、波平大臣を摂関に任命することにしました。



自分が小さい頃からずっと見守ってきてくれた大好きなおじいちゃんが後ろ盾となってくれるのです。



タラ帝からしてみれば、こんなに心強いことはありません。



こうして波平大臣は、もしこのときタラ帝がまだ幼いのであれば摂政として、もう成人を迎えているのであれば関白として、政治をサポートしていきます。



波平大臣のサポートの過程においても、タラ帝は自分が信頼する大好きなおじいちゃんのアドバイスや意見は、当然のことながらなんでも聞いてくれるようになりますよね。



こうして、波平大臣は、実質的に政治の実権を握ることに成功したのでした。・・・



藤原氏北家が外戚政策によって実権を掌握することができたのは、こういう背景があったのです。




 
いかがでしたか?


天皇家と外戚関係を構築することがどうして摂関政治の発展につながるのか、お分かりいただけたかと思います。



藤原氏北家が台頭してくる平安時代前期~中期にかけてのこの時期は、政治体制的には単純ですが、それ故に深く理解できている方とそうでない方との間で大きく差が付く分野であるので、意識して学習をしていっていただければ幸いです。





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