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【理由を解説!】長岡京からすぐに平安京へと遷都されたのはなぜか?非業の死を遂げた早良親王の怨念?

更新日:2021年7月6日

たかった。





さて、奈良時代も終わりを迎え、心機一転、桓武天皇は奈良の平城京を捨てて新たに京都・長岡京へと遷都を行いました。



しかし、長岡京の造営ももうすぐ終わりを迎えようとしていた794年、桓武天皇は再び遷都を行ってしまいます。



「鳴くよウグイス平安京」でお馴染み。【794年 平安京遷都】です。



長岡京はわずか11年間しか使われなかったことになります。



しかも、長岡京と平安京は現代の地図上でみると電車でわずか数駅分の距離しか離れていません。



どうして長岡京から平安京へと遷都されたのでしょうか。



今回の記事では、その疑問を解決していきたいと思います!



目次-

1.長岡京への遷都

2.長岡京の造営と藤原種継暗殺事件

3.犯人は大伴氏ら!桓武天皇の実の弟・早良親王も関与・・・?

4.悲劇!最後まで無罪を訴え続け早良親王の壮絶な最期

5.早良親王の怨念?桓武天皇の周りで立て続けに不幸が発生

6.そして行われた平安京遷都





 

1.長岡京への遷都

 

桓武天皇が奈良の平城京を捨て長岡京へと遷都を決めたのは、


①天智系皇統の復活に伴い‘‘新王朝‘‘としての正当性や威厳を示したかった。

②奈良時代後期に朝廷がお坊さんによってめちゃくちゃされたのを深く反省し、奈良仏教勢力を政治の場から排除して、政治の刷新を図りたかった。


からでした。



↓詳しくは以下の記事をご覧ください↓

桓武天皇はなぜ「京都」の長岡京・平安京へと遷都したのか【理由を解説】




実際には、平城京を捨て長岡京への遷都を行う旨を式家の藤原種継が進言し、それを桓武天皇が受け入れたと言われています。



天智系皇室の桓武天皇が藤原氏式家の種継に信頼を置くのは、考えてみれば不思議なことではありません。



天智系皇統が復活したのは、奈良時代最後の政権担当者であった藤原百川(式家)が、

自分に皇位が回ってくるなんて思ってもみなかった光仁天皇を天皇に擁立したからでした。



だからこそ、光仁天皇の息子である桓武天皇が、百川の血縁である種継を重用するのも納得のできる話でありましょう。



こうした背景もあり、784年、奈良の旧勢力を中心に叫ばれた遷都反対の声を押し切って、長岡京への遷都が敢行されたのでした。





 

2.長岡京の造営と藤原種継暗殺事件

 

さて、長岡京への遷都も決まり、現在の京都府長岡京市・向日市・京都市伏見区・西区にわたる地域に新しい京の造営が進められました。



長岡京の造営責任者は、桓武天皇に遷都の進言をした藤原種継です。



長岡京の造営は種継を中心として、依然として遷都に反対する勢力にも配慮しながら進められました。



桓武天皇自身も朝廷改革を実行し、反対勢力の力を削いで遠ざけるような政策を行い、造営作業も着々と進められていきました。



ところが・・・



遷都からわずか翌年の785年のことです。とんでもない事件が起こってしまいました。



藤原種継が何者かによって弓で射抜かれ暗殺されてしまったのです(「藤原種継暗殺事件」)。



種継に厚い信任を置いていた桓武天皇は、当然のことながら大激怒します。



桓武天皇「許さない…!! 絶対に犯人を捕まえるんだ!!」




 

3.犯人は大伴氏ら!桓武天皇の実の弟・早良親王も関与・・・?

 

犯人はあっさりと見つかりました。



桓武天皇自身や遷都自体にも最後まで反発していた大伴継人を始め、大伴氏佐伯氏の数十人が捕らえられたといいます。



その中でも首謀とされたのは、この事件の直前に亡くなっていた大伴家持でした。



大伴家持と言えば、歌人として優れた和歌を多く残し、万葉集を編纂したことでも有名な文化人であります。



実はこの人物は官僚としても有力であり、最後まで桓武天皇に抵抗し続けた奈良旧勢力の代表人物でもありました。



家持の遺体は墓から引きずり出され、生前に築き上げた官僚としての地位をも剥奪されるという、死後でありながらも厳しい罰が下されたと言います。







と、これで大伴氏・佐伯氏のみが処罰されればよかったのですが・・・



ここで、この藤原種継の暗殺事件に、桓武天皇の弟である早良親王が関与しているとの噂が流れたのです。



早良親王は桓武天皇の弟であり、皇太弟でした。すなわち、桓武天皇の次の天皇となるべき人物であります。



桓武天皇・早良親王はともに母を同じくする本当の兄弟です。仲も良好であったと言われています。



そんな早良親王が、自分の厚く信頼を置いていた種継の暗殺事件に関与していたかもしれないということに、桓武天皇は深くショックを受けました。



長岡京の造営が進むにつれて種継と早良親王が次第に不仲になっていったという事実は確かにあるようですが、たとえそれでも、種継の死に早良親王が関与していたという噂にはっきりとした根拠はありません。



(実際に後世にあたる現代から見ても、早良親王が種継を暗殺するはっきりとしたメリットは見当たりません。事実無根の単なるデマ?)



早良親王は徹底して無実を主張しましたが、結局、その懐疑の念を払拭させることはできず、桓武天皇は早良天皇にも処罰を与えることを決めたのでした。







 

4.悲劇!最後まで無罪を訴え続けた早良親王の壮絶な最期

 

大伴氏や佐伯氏らと同様に、桓武天皇は早良親王にも厳しい処罰を与えます。



まず初めに、早良親王は皇太弟としての身分を廃されてしまいました。



(なお、これにより、桓武天皇の第1皇子であった安殿親王が皇太子となりました。のちの平城天皇です。)



次期天皇としての立場を廃するということだけでもかなりの厳罰ですが、それだけにとどまらず、その後早良親王は乙訓寺と呼ばれる京都の寺に幽閉されてしまいます。



しかし、早良親王のすごいのはここからでした。



普通の人間であるならば、正直ここまで追い込まれたら諦めの境地に至り、残りの人生を質素でつつましく生きようと思いそうなものですが、鋼のメンタルを持つ早良親王はあきらめませんでした。



「自分は無実だ!」という名誉を賭けた、決死のハンガーストライキに突入したのです。



幽閉されているときからずっと、早良親王は無実を訴え続けて、自ら一切の飲食を拒んだといいます。



何不自由なかったであろう皇太子生活とのギャップを考えると、ものすごい執念です。。。






しかしながらその思いはついに届かず、疑いを晴らせぬまま、早良親王は淡路島へと流されることとなってしまいました。



そして配流先へと向かう途中、無念のうちについに力尽きて餓死したといいます。



このように早良親王は、悲運の果てに、日本史史上稀にみる壮絶な最期を遂げたのでした・・・。




 

5.早良親王の怨念?桓武天皇の周りで立て続けに不幸が発生

 

無実を訴えながら餓死という、早良親王にこれだけの強い意志・執念を示された朝廷は大きく動揺します。



「早良親王、やっぱり本当に無実だったんじゃ・・・」



かつて自分と仲の良かった無実の弟を死に追いやってしまったことで、桓武天皇は深く悩むこととなります。



同時期に、早良親王の代わりに皇太子となった例の安殿親王(のちの平城天皇)も心の病を患うなど病気がちになってしまい、桓武天皇の奥さんに至っては体調を崩した後にやがて亡くなってしまいます。



桓武天皇の実の母である高野新笠が亡くなったのも、ちょうどこの時期であるようです。



さらに、京では日照りによる飢饉や疫病が相次いだほか、伊勢神宮が放火されたり、完成近かった京に洪水が続くなど、このように不吉めいたさまざまな変事が幾度となく続きました。



桓武天皇自身も、さすがに「これは・・・」と感じ始めたのでしょう。



この時代は、現代よりもはるかにずっと、霊力や祟りといった超自然的な力が信じられていた時代です。



ちょうどこのころ、平安時代には、非業の死を遂げた人の魂が怨霊となり、現世に祟りをなすという考え方があり、その祟りを恐れた人々は怨霊を深く信仰したのでした。



いわゆる「怨霊信仰(御霊信仰)」と言われるものです。



桓武天皇も都の人々も、これら一連の変事を、「早良親王の怨霊のせいなのではないか・・・」と感じ始めていました。



桓武「どうしたものか・・・」







窮した桓武天皇が頼ったのは陰陽師でした。



陰陽師に試しに占わせたところ、これら一連の不吉な返事は、全て早良親王の怨霊によるものだという結果が出たといいます。



桓武「やはり弟の祟りだったのか・・・」



これを受け桓武天皇は、早良天皇の怨霊を鎮めるべく、さっそく早良親王の鎮魂の儀式に取り掛かります。



そして、同じ目的で、早良親王に「崇道天皇」と追号したのでした。



もうすでに亡くなった、実際に天皇となったことのない人物に天皇号を与えるのは、異例のことであったと言います。



(実際に皇位を継承したわけではないので、歴代の天皇にはカウントされていません。)



このことからも、桓武天皇は早良親王の怨念を強く恐れていたことがうかがえますね。




 

6.そして行われた平安京遷都

 

さて、しかし長岡京の問題は早良親王の祟りだけではありませんでした。



大雨によって河川が氾濫し大きな被害を被るなど、長岡京では水害が多発していたのです。



一説によると、ネズミの害も無視できないほどであったといいます。



治水担当者でもあった和気清麻呂が、ついにこう進言しました。



和気「帝!もういっそ、また新たな都へと遷都をお決めになってはどうでしょうか。」






こうして新たに京の候補として上がったのが、葛野(かどの)と呼ばれる、長岡京から北東10km、2つの川に挟まれた、山背国北部の地でした。



ここは桓武天皇との関係も深かった秦氏の本拠地でもあり、交通・水運の便も非常に良く、四方の国の人が集まりやすい場所です。



桓武天皇自身も視察に行き、その山や川の麗しさに惹かれ、さっそく再遷都の準備が行われました。



大内裏(宮城のこと)の造営は急ピッチで進められていったといいます。



こうして、長岡京への遷都からわずか10年後の794年



桓武天皇は早良親王の怨念渦巻く長岡京を捨て、新たな都である平安京」へと、再び遷都を行ったのでした。




 
いかがでしたか?

長岡京から平安京への遷都に際して、水害やネズミの害を避けより京へとふさわしい場所へと移ろうとする意図が桓武天皇にあったことも事実ですが、やはり早良親王の存在も非常に大きなものであったことがお分かりいただけたかと思います。



怨霊信仰(御霊信仰)は、平安時代をこれなしには語れない!というほど、この時代において重要なワードです。



今後も政治的に不遇であった人々の怨霊が次々に登場するのですが、そのたびに、天皇や平安貴族たちはその祟りを恐れて深く悩み、怨霊を祀る神社を建てたり御霊会を開催したりします。



怨霊によって(?)体調を崩し、死に至る人も少なくはありませんでした。



本当に死者の霊が存在するのかは今も昔も分かりませんが、時には目には見えない人々の強い思いが、現世の人々を動かすことがあるのかもしれませんね。



それでは、今回の記事はこれにて以上です!



ぜひ、以下の記事もご覧くださいませ!




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