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【氏の長者争い-後編-】道隆VS道兼、道長VS伊周。栄華を極めた藤原道長の人生。その政策は?なぜ道長は関白にならなかった?【徹底解説】


△画像は藤原道長


さて、後編では藤原道長を中心として、どのような氏の長者争いが展開されたのか、




さらにはその最終勝者として権力のトップに躍り上がった藤原道長の人生について解説していきます。




前編で紹介した図と同じものではありますが、復習を兼ねてここでもう一度、藤原氏北家の家系図を確認しましょう。






前編では、大きな回り道を経ながらもついに摂関の地位まで上り詰めることに成功した兼家の生涯についてまで解説しました。




その死後には、今度はその子供たちによって激しい争いが展開されていくこととなるのですが、後編ではその以下2つの氏の長者争い、




道隆[兄] vs 道兼[弟]

道長[叔父] vs 伊周[甥]




について解説していきます。



⇓⇓⇓授業ノートはコチラから!

授業ノート(PDF版)【平安時代⑨ 摂関政治の全盛―藤原道長と頼通―】



⇓⇓⇓前編の記事はコチラから!

【氏の長者争い-前編-】兼通VS兼家の摂関の地位をめぐる対立。藤原氏のトップはどのように変遷した?【徹底解説】



目次―

〇前編

1.藤原氏北家台頭の過程(復習)

2.藤原氏北家のトップの変遷

3.氏の長者争い①:兼通[兄]VS兼家[弟]

4.兼家の台頭

○後編

1.氏の長者争い②:道隆[兄] vs 道兼[弟]

2.氏の長者争い③:道長[叔父] vs 伊周[甥]

3.道長の娘・彰子の入内

4.藤原摂関家の全盛期の到来。道長の‘‘一家三立后‘‘達成

5.文化史と藤原道長

6.道長が生涯関白に就任しなかったのはなぜ?







 

1.氏の長者争い②:道隆[兄] vs 道兼[弟]

 


強大な権力を保持していた兼家の死後、兼家に代わって990年、摂関・氏の長者の地位を継いだのは、




兼家の長男であった藤原道隆でした。




摂関の地位を得て権力を掌握した父の策により、急速に出世を果たした人物です。




道隆についてまず押さえなければならないことはただ一つ。




「990年、娘の定子一条天皇に入内させた。




これだけです。




これが後々に大きな問題を引き起こしていくことになりますので、後程詳しく解説しますが、とりあえずまずこれだけ押さえてください!









・・・しかし道隆の栄華も長くは続きませんでした。




摂関の地位を得てからわずか5年後、995年に道隆は病に倒れ、そのまま帰らぬ人となったのです。




死因としては、酒の飲みすぎなどを始めとした糖尿病の悪化が、偶然にもこの時期に重なったことによるものであるといわれています。




豪華な生活を送っていた平安貴族ならではのエピソードといえそうです。




(なお、道隆の酒好きは相当有名だったようで、『大鏡』にもそれを示すエピソードが残されています)。








さて、道隆としては、次の摂関には息子である伊周を就任させたかったといいますが、




道隆の意志に反して、次の関白に就任したのは、弟の道兼(兼家の次男)でした。




道兼にとっては待ちに待った関白です。




一条天皇が次の関白に、伊周ではなく自分を選んでくれたことを、道兼は大いに喜んだことでしょう。




しかし、ここで思いがけないことが起こります。




関白に就任してからわずか11日後のことでした。




道兼が突然亡くなってしまったのです。




詳しい原因は分かっていませんが、病死したと言われています。




本人にとってはもちろんのことですが、この急死は世間の人々にとっても本当に思いがけないことでした。




待望の関白にようやく就任できた!という道兼の思いと、その現実のあまりの儚さ残酷さから、世の人は彼のことを ‘‘七日関白‘‘ と称したそうです。






 

2.氏の長者争い③:道長[叔父] vs 伊周[甥]

 


さて、道隆・道兼と立て続けに兼家の子供が亡くなった今、空いた権力の座をめぐって対立したのが藤原道長と藤原伊周です




道長は道隆・道兼の弟(すなわち、兼家の三男)であり、対して伊周は道隆の息子でした。




すなわち、道長が叔父であり、伊周はその甥という親類関係にあったわけです。




道兼の死後、次の氏の長者をめぐり、道長と伊周は4か月近くにわたって対立することとなります。




もともと、伊周自身も次の摂関には自分が就任することを欲しており、一条天皇の意中も伊周にあったと言われています。




実際にこのとき、官位も道長より伊周の方が上であったことから、順当にいけば伊周が次の氏の長者に繰り上がるべきであったはずです。




では、ここから道長はどのように巻き返したのでしょう。




その答えが書いてあるのはもちろんこの書物。




今回の記事で何回も登場しました、『大鏡』です。




『大鏡(関白の宣旨)』によると、一条天皇の母であった詮子兼家の娘、道長の姉)が一条天皇の心を動かしたのだといいます。




詮子はかねてより弟の道長のことを寵愛しており、次の摂関に道長を選ぶよう、一条天皇に対して強く推していました。




しかし、それでも一条天皇が伊周を関白にしたいという考えを変えることがなかったため、そののち詮子は涙を流して同天皇に強く迫り、




ついにはそれに折れるような形で、ついに一条天皇は道長の登用を決めたのでした。




あはや、宣旨下りぬ。




そう言って涙に顔を濡らしながら、詮子が道長に微笑みかけるシーンは非常に有名ですね。

古文の授業で習ったことがある方も非常に多いでしょう。




こうしてついに995年9月、詮子の協力なバックアップもあって、伊周との対立を制した道長が氏の長者の権力の座を手にしたのでした。




(なお、この後伊周やその弟隆家は、ひょんな勘違いから引き起こしてしまった事件の責任を問われて自滅し、実質的に左遷されるなど政治の表舞台から姿を消してしまいます。




入試で問われることはありませんが、気になる方は「長徳の変(花山院闘乱事件)」でお調べくださいませ。)






 

3.道長の娘・彰子の入内

 


さて、甥である伊周との政争に勝利した藤原道長ですが、彼がこの後に絶対的な権力を確立・保持することができた一番の要因は、




自分の娘を次々と天皇に嫁がせることに成功したことにあります。




道長の政治に関して入試でよく問われるこのポイントを、当章から確認していきましょう!




まず、道長は一条天皇に対して、自分の娘である彰子を嫁がせようとします。




しかし、ここで先ほどポイントとして述べたことですが、もうすでに、一条天皇には中宮定子という正妻がいました




定子は藤原道隆の娘でしたね。




しかしながら道隆はもうすでに亡くなっていたために、さらに伊周や隆家(定子の兄弟)たちもひょんな自滅から左遷されていたために、




彼女自身にとってよすがとなる後ろ盾はこの時既に失われていたのであります。




この状況をチャンスと見た道長は、自分の娘・彰子をも、正妻として一条天皇に嫁がせようとしたのです。






もちろん、もうすでに一条天皇には中宮定子という正妻がいたために、普通に考えれば少なくとも、




彰子を定子と同じ正妻という立場で一条天皇の后として並立させることはできないわけであります。




しかし、それでもあきらめないのが道長です。




道長は、一人の天皇に対して正妻が二人になってしまうというこの異例の状態を、




定子を皇后として扱い、彰子は中宮として嫁がせればよいという屁理屈により、自らの権力を用いて半ば強引に押し切ったのでした。




もちろん、同じ正妻であっても、父・道隆という大きな後ろ盾を失っていた定子には、もはや力はありません。




そのため999年以後、藤原道長を後ろ盾とした彰子の存在が、一条天皇に対して大きな影響力を持つようになっていったといいます。




なお、一条天皇と定子・彰子について触れたときに絶対に忘れてはならないのが、彼女らに仕えた女房のことです。




日本人であれば誰であっても名前くらいは知っている、平安時代において最も有名な2大文学作品『枕草子』と『源氏物語』。




これを執筆した清少納言紫式部は、それぞれ定子と彰子に仕えていた女房だったのでした。




また、彰子には女房として他にも、『和泉式部日記』の作者として有名な和泉式部、さらには『栄華(花)物語』の作者として有名な赤染衛門も仕えていました。




外戚政策を行う上でなくてはならない存在であった女房。




摂関政治の隆盛は、和歌や物語などの日本独自の平安文学が花開く役割を間接的に果たしたともいえるのです。




⇓⇓⇓「女房」とは?「摂関政治」と「女房」との切っても切れない関係とは?詳しくは以下の記事から!

【理由・仕組みを解説!】なぜ藤原氏は外戚政策を行うことで摂政・関白となれたのか?【ポイントは‘‘妻問婚‘‘】【サザエさんで考えろ!?】






 

4.藤原摂関家の全盛期の到来。道長の ‘‘一家三立后‘‘ 達成

 


さて、自分の娘彰子を一条天皇に嫁がせることで皇族との外戚関係を構築することに成功した道長はその後、



1016 年には一条天皇と彰子との間に生まれた後一条天皇の摂政となりました。




さらに、のちの1012 年には道長の娘の妍子(けんし)が三条天皇の中宮となり、




加えて1018年には娘の威子(いし)が後一条天皇の中宮となり、




道長は彰子・妍子・威子の三娘を天皇の后にするという ‘‘一家三立后‘‘ を実現しました。




道長はこうして、天皇と密接な関係を築くことで自らの権力を盤石なものにし、藤原摂関家は全盛期を迎えることとなったのです。








此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたる事も無しと思えば




非常に有名な歌ですね。




これは、1018 年、道長の娘の威子が後一条天皇の中宮となった日の夜に行われた宴の席において、道長が詠んだものであると言われています。




藤原道長・頼通父子の活躍した藤原氏全盛期の時代における政治や社会、文化・行事の全般が詳細にわたって記述されている、




小野宮右大臣・藤原実資によって書かれた『小右記』という日記において収録されているものです。




「この世は我(=道長)のためにあるようなものだ。満月のように何も欠けた(=足りない)ところがない」




といった意味合いとして解釈されることの多いこの歌ですが、この歌からも道長のイケイケっぷりを読み取ることができるでしょう。




権力のトップに君臨する道長のもと、こうして摂関家は絶頂期を迎えていたのでした。




(『小右記』によると、この歌が詠まれたのには以下のような経緯があったといいます。




宴の席においてあるとき、道長が実資に対して、歌を詠みあわないかと急にもちかけたそうです。




そのときに道長によって詠まれたのがこの歌でした。




これに対し実資は丁重に返歌をお断りし、代わりにその場にいるみんなでこの歌を繰りかえし口ずさむことを提案したといいます。




こうして、宴の席に集まった公卿一同でみな、繰り返しこの歌を口ずさんだというエピソードが残されています。)










 

5.文化史と藤原道長

 


続いてこの章では、道長が平安時代の文化に与えた影響について述べていきましょう。




先ほど述べたことですが、外戚政策を成功させるべく、道長は自分の娘であった彰子に対して数々の優秀な女房たちを仕えさせました。




『源氏物語』を書いた紫式部、『和泉式部日記』を書いた和泉式部、『栄花物語』を書いた赤染衛門などがその代表例でしたね。




中級貴族たちも藤原氏となんとかして繋がりを作るべく、同じように子女たちに教育を惜しみませんでした。




このことからも、藤原道長ないしは藤原氏の隆盛が、平安時代の国風文化の発展に間接的に寄与したということができるのです。








道長が平安文化史においた功績として忘れてはならないのが、法成寺の建立と『御堂関白記』の執筆です。