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【桓武天皇の諸政策について解説】なぜ勘解由使の設置が地方政治の引き締めに繋がるの?【勘解由使】

更新日:2021年7月11日




光仁天皇に引き続いて即位した桓武天皇は、律令制の再建を目標とし、自らどんどん諸改革を実行していきます。



桓武天皇は、光仁天皇の即位によって天智系皇統が復活したことを、中国における‘‘新王朝‘‘の成立のようなものとして考えていたと言われています。



そのため、天智系皇室の威厳を示したいという思いから、積極的に政治の刷新を図っていったのでした。



では、桓武天皇は具体的にどのような改革を行ったのでしょうか。



記述のみならず、論述においても問われやすい、大学入試において非常にポピュラーなテーマでございます。



今回の記事は、前半では桓武天皇が行った諸改革について簡単に述べるとともに、後半では主に「勘解由使」にフォーカスを当てて、解説していきたいと思います!



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【桓武天皇による律令制の再建】



目次――

1.桓武天皇の行った諸改革とは?

2.それぞれの政策について少し解説!

3.「勘解由使」「解由状」とは?どうして地方政治の引き締めに繋がるの?





 

1.桓武天皇の行った諸改革とは?

 


桓武天皇が行った諸改革として、入試で問われる具体的な政策は以下の黒板の通りです。





桓武天皇はあらゆる政策を行いましたが、黒板の通り、それらの政策は主に2つの目的別に区別できます。



【 A農民負担の軽減 】 【 B地方政治監督の強化 】 です。



前者は非常に分かりやすいですね。文字通りです。



奈良時代は、農民に対して重い負担をかけすぎたために公地公民制が崩壊し、律令体制に動揺が走った時代でした。



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【奈良時代④ 重すぎる農民負担と公地公民制の崩壊】



律令制の再建を目指していた桓武天皇は、この反省を踏まえ、農民の負担を軽減させる政策を積極的に行ったのでした。





 

2.それぞれの政策について少し解説!

 


雑徭とは何か覚えていますか?



雑徭とは、古代律令体制下において設定された農民負担の一種で、地方の人頭税とされたものです。



「租」「調」「庸」と一緒に学習することが多い単語ですね。



国司のもとで、地方の労役に年間最大60日間従事することを定めたものでしたが、桓武天皇はこれを、最大30日へと半減させました。







出挙とは、春先に農民に対して稲を貸し付け、秋の収穫の時に、貸した分に利息(この場合には稲なので‘‘利稲‘‘です)を付けて返させた制度です。



出挙には、国が貸し付けを行った公出挙と、一般人が貸し付けを行った私出挙の2種類がありました。



現代で言えば公出挙は、僕が投資のために国から借金をし、それを元手に稼いだ後に利子とともに借りたお金を返した、ということと構造的に全く同じです。



本来、この出挙は農民の再生産を保証する制度として機能していました。



何らかの理由で十分な量の稲が収穫ができなかった農民に対し、次の年に困らないよう稲を貸してあげるからです。



しかし、奈良時代頃になると律令政府はこの公出挙を農民に対して強制的に行うようになりました。



そして、その利子で地方行政の財源を補填するようになってしまったのです。



このように地方政治の運用に欠かせないものとなってしまった公出挙は、実質的に租税化し、農民の負担として重くのしかかっていたと言います。



実に、農民に対して貸した分の5割もの稲が、公出挙の利稲として定められていました。



桓武天皇はこの公出挙の利稲を3割にまで下げることで、農民負担の軽減を図ったのでした。







桓武天皇は班田の頻度の減少も行っています。



6年に一度の班田「6年1班」であったのを、畿内に限り12年に一度の班田「12年1班」にしたのです。



教科書では「班田の励行」とも表現されますね。



奈良時代を通して、浮浪・逃亡、偽籍などが増加し、朝廷は正確な戸籍に基づいた班田が困難になっていました。



そこで、班田の頻度を下げることで、朝廷は十分な時間を確保して慎重に準備をし、確実に租税を徴収することを目指したのです。



また、農民に対して、「頻度を減らしたんだからちゃんとやってよね!」とアピールをして、律令制に定められた土地制度の維持・立て直しを図る意図があったとも言われています。







律令制に定められた農民負担の中でも最もキツいとされていたものの一つが「兵役」です。



これは、正丁3~4人に1人の割合で課せられた負担であり、国司のもとで軍団に配属され、一定期間軍事教練を受けて軍団兵士となるというものです。



一般的に「軍団制」と呼ばれたこの制度を廃止したのも桓武天皇です。



桓武天皇は九州など特定の地域を除いて軍団制を廃止して、その代わりに「健児の制(こんでんのせい)」を制定し、兵士として採用した郡司の子弟らを国衙の警備などに従事させたのでした。



これら律令体制下で定められた農民の納税・諸負担についておさらいしたい方は

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【飛鳥時代⑤ 律令国家の機構と諸制度(2)】







桓武天皇のやった事業として、「平安京の造営」と「蝦夷の征討」も忘れてはなりません。



この事業は桓武天皇二大事業とも呼ばれ、‘‘新王朝‘‘としての意識を強く持つ桓武天皇が、政治の刷新や天智系皇室の威厳の誇示などを目的として、在位中に自らの人生を懸けて行ってきたものでした。



「平安京への遷都」と「蝦夷の征討」について詳しくはコチラの記事を!

① 桓武天皇はなぜ「京都」の長岡京・平安京へと遷都したのか【理由を解説】

② 【年表付き!蝦夷征討完全まとめ】 蝦夷征討の過程は?そもそもなぜ行われた?【-後編-】



もちろんこの事業自体も大切なのですが、そのように人生をかけて行ってきた事業を人民のために自ら中断したことも、当然忘れてはなりません。



いわゆる徳政相論ですね。



これも、桓武天皇の美談として語られることが多いエピソードです。






桓武天皇は自らの理念のもと進めてきた政治が徳政であると信じ、そして民にとっても有益なものであると信じていましたが、桓武天皇がどれだけ政治を進めていっても民の顔はいまいち晴れず、むしろ心なしか疲労の色が見られる気がしていたといいます。



この状況を憂いた桓武天皇は、桓武天皇は自分の側近であった藤原緒嗣菅野真道の2人に、天下における徳のある政治はどのようなものであるかを問い、意見を戦わせたのでした。



これが、805年に実施された「徳政相論(徳政論争)」と呼ばれるものです。



藤原緒嗣は民が苦しんでいる原因は ”軍事”と”造作 ”、すなわち【蝦夷の征討】と【平安京の造営】にあるとし、これを中止するべきだと進言します。



菅野真道はあくまでこれに反対しましたが、結局のところ、桓武天皇は緒嗣の意見を採用することにします。



緒嗣の意見はまるで、桓武天皇自身が正しいと信じてこれまでやってきたことを全否定するようなものでしたが、「民が苦しんでいるのなら――」と、桓武天皇はこれら二大事業を中止するという英断を行ったのでした。



このことから、徳政論争の実施は今日まで、民のための徳政を追求した桓武天皇の武勇伝として語られています。




 

3.「勘解由使」「解由状」とは?どうして地方政治の引き締めに繋がるの?

 


さて、ここからは後半戦。「勘解由使」についてお話ししたいと思います。



勘解由使(かげゆし)とは何か。



簡単に言ってしまえば、国司交替の際に引き渡された「解由状」を審査する監督官です。



もちろんこれも、令外官の一つでございます。



国司の交代の際、



①まず、前任国司から新任国司へは事務引継ぎがなされ、

②次に新任国司から前任国司へは、「ちゃんと引き継ぎ事務が行われましたよ」という旨が記された解由状と呼ばれる書類が手渡されました。



また、この解由状には前任国司の公務に怠慢がなかったことを証明する役割も果たしていたといいます。



言ってみれば、前の国司がちゃんと仕事をしていたかを評価する通知表ようなものも兼ねていたと考えていただければいいでしょう。



前任国司はその解由状を京へと持参し、太政官に承認されることで、国司の交代は完了とみなされたのでしたが、その解由状の受け渡しをめぐって、前任国司・新任国司の間に不正や紛争が絶えなかったと言います。



例えば、、、



前任国司が負担すべき諸経費を払わないことを理由になかなか解由状を発行しようとしない新任国司と、早く解由状を手に入れて京へと帰りたい前任国司との間で揉め事が起こったり、、、



職務怠慢や不正だらけの公務をやったのにもかかわらず、解由状にそう書かれては責任問題となるので、解由状にいい成績を付けてもらうべく前任国司が新任国司に賄賂を渡したり、、、



逆に不正は絶対許さない!という強い正義感を持つ新任国司が、前任国司の解由状に不正があった旨を記して紛争になったり、、、



と、このように書いていけばきりがないですが、とにかく前任国司と新任国司間の間では、この解由状をめぐってトラブルや不正がよく発生したのでした。



当然このような問題が発生するたびに、地方政治は滞り、大きな混乱を招くこととなります。



地方政治はかなり弛緩(しかん)していたのです。



このような状況を打開すべく設置されたのが勘解由使でした。





勘解由使のした具体的な仕事は、解由状を審査することにあります。



前任国司と新任国司との仲介役に入り、新任国司から解由状を受け取る役割を担ったのです。



勘解由使は前任国司から渡された解由状を精査して、本当にその記述に偽りや不正がないかをチェックします。



そうして、万が一問題を発見した場合には、前任国司に問いただし、責任を追及しました。



このように第3者の仲介役が設けられたことで、解由状をめぐる不正やトラブルは未然に防がれ、国司の交代はスムーズに執り行われるようになったといいます。


さらに、賄賂を渡して解由状にでたらめ書くわけにもいかなくなったので、国司も任期中に怠慢・不正だらけのテキトーな政治を行うことができなくなり、これが結果として地方政治の引き締めへとつながったのでした。



これにより無茶苦茶な国司もいなくなるので、当然農民負担の軽減にもつながります。



【 B地方政治監督の強化 】を目的として設置された勘解由使でしたが、大きな目で見れば結局これも、農民負担の軽減へと帰着できるのです。



その権威を国内に広く知らしめるようとしていた桓武天皇でしたが、自らが直接地方行政に乗り出すことなく、間接的に統治を行ったということに、その頭の良さが窺えますね。





 
いかがでしたか?


律令制の再建を意図した桓武天皇は、その敏腕を以て、自らさまざまな改革を積極的に行なってきたのだということがお分かりいただけたかと思います。



桓武天皇は、後世においても非常に評価の高い天皇です。



桓武天皇の改革は、常に民のことを思い、徳のある政治を目指して行われたものでした。



この点において、桓武天皇は非常に温かみのある、善き施政者であったと言えるのではないでしょうか。



補足ですが、よく勘解由使は嵯峨天皇の時代に設置された検非違使と混同されがちです。



桓武天皇(かんむてんのう)も勘解由使(かげゆし)もどっちも「か」から始まるというふうに覚えれば間違えることはないでしょう。



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