更新日:2021年7月6日

超大国アメリカの圧倒的な経済力・軍事力によって世界の平和が保たれてきたとされる「パックス・アメリカーナ」の時代。
しかしながら、ロシア, ドイツ, 日本, アジアNIESなどなど世界のあらゆる大陸で様々な国が台頭している現代において、もはやアメリカ一強の時代は、とっくに終わりを迎えてしまったように思えます。
さて、そのように台頭してきた国々の中で、今後の世界平和を大きく左右していくであろうと超大国として、特筆すべきはやはり中国でしょう。
その広大な国土と豊富な資源, 圧倒的な経済力, さらに世界一の人口を以てすれば、その国名の由来通り、再び ‘‘世界の中心の国‘‘ となってしまう日は、そう遠くもないように思える気もします。
そう、「再び」 です。
古代において、中国こそが世界NO.1であるという意識は、確かに存在していました。
世界といっても地球全体ではなく、自分たちの見識の及ぶもう少し狭い範囲――具体的には ‘‘アジア世界‘‘ においてですが、
それでも世界一の広さを持つ巨大なアジア大陸において、中国は自らを、自他ともに認める世界の「中心」国であると、信じて疑わなかったのです。
この意識は一体どこから生まれてきたものなのでしょうか。
・・・前置きが長くなりました。
ということで、今回のテーマは「中華思想」です!
教科書等で紹介されることは少ない発展的な思想ですが、古代中国および、古代の日本の政治・文化を語る上で、これなくしては語れないというほどの重要なテーマでございます。
さらに、この中華思想とともに、古代中国を語る上で大切になってくる2つの思想「天命思想」と「易姓革命」と、中華思想が中国の周辺諸国および日本に与えた影響についても紹介していきたいと思います!
目次ー
1.中華思想とは?概要を簡単に解説
2 古代中国を語る上で必須!「天命思想」と「易姓革命」
3.中華思想が他国に与えた影響は?日本との関係は?
4.日本も中華思想を導入!‘‘東夷の小帝国‘‘
1.中華思想とは?概要を簡単に解説!
中華思想とは、中国において集住する多数の民族の中でも最も多くの人口をもつ漢民族が古くから持っていた自民族中心主義の思想です。
自国である中国の持つ政治や文化,思想こそが神聖かつ世界の中心であり、他の国々に優越しているという意識であり、簡単に言ってしまえば「中国こそが世界の中心だ!」と自負する考え方にほかなりません。
周王朝の時代に始まったこの価値観は、漢王朝の頃には確立され、その後近代頃まで存在していたといいます。
そもそも、「中華」という国の名称自体が、中国人が自分の国を美称した呼び方です。
「華」という漢字には「文明・文化の進んでいる」という意味もあるそうですが、「我々こそが中心の華だ!」というこの呼び方自体にも、漢民族こそが世界の中心であるという意識の現れを読み取ることができます。
そして、自民族を中心とするこの思想は、中国国内のみならず、中国の周辺の国々、具体的にはアジア諸国に大きな影響を与えていくことになります。
⇓⇓⇓中華思想についての授業ノート(PDF)はこちらから!
2.古代中国を語る上で必須!「天命思想」と「易姓革命」
古代中国の政治や文化を語る上で無くてはならない思想が、「中華思想」の他にもう2つあります。
「天命思想」と「易姓革命」です。
高校倫理ではセンターレベルの知識として出題される知識です。基本ではありますが非常に大事な単語ですね。
まず「天命思想」から解説します。
古代中国において、天地・万物を支配する絶対的な存在は、天帝=天であるとされていました。
天帝=天は、キリスト教で言うヤハウェやイスラム教で言うアッラーに相当する、唯一無二の全知全能の存在です。
そして、天帝=天は、「天下(=天の下、すなわちこの人間世界全体)」の実際の支配を、徳のある人間に任せたといいます。
天帝=天から天命を下されて、この世界の統治を任された徳のある人間。それが天子=中国皇帝なのです。
そして、天帝=天が天命を下して、皇帝=天子に天下の統治を任せたのだというこの思想こそが「天命思想」と呼ばれるものです。
さて、当然のことながら、天子は天命を下されて終わりではありません。
天命を下されたある人物Aは天子=皇帝となって天下の統治を行っていくのですが、Aの死後は血縁関係で継承されるA王朝が天下の統治を行っていくこととなります。
A王朝の統治権は、神聖なる天帝=天から委任されたものであるので、その正当性も絶対的なものです。
そのために、世界の人間は誰もがA王朝に服従をしなければならないという理屈のもと、A王朝は徳のある政治を行っていきます。
しかし、残念ながらA王朝が将来永劫、徳のある政治を行うとは限りません。
そのうち、権力や欲におぼれて、責務怠慢や悪事を行ってしまう皇帝が現れるでしょう。
そのように、A王朝が徳を失って天下が乱れると判断されると、天帝はA王朝に見限りをつけて、また別の徳のある者Bを天子=皇帝として代わって天命を与えます。
そして、今度はBとBの子孫が代々皇帝=天子となって、また天帝に見限られるその日まで、B王朝として天下を統治していくのです。
中国では、このような理論のもと王朝が交代していくと考えられていました。
以上に見たように、姓を持つ皇帝とその一族によるA王朝がまた別の姓を持つB王朝へと代わっていく――この政変のあり様を「易姓革命」と呼んでいるのです。
(「易」という漢字には、改易・貿易という言葉にも使われるように、「変わる、取り換える」という意味があります。)
余談ですが、「革命」という言葉の由来も、古代中国の王朝交代からきています。
「革」には「変わる、あらためる」という意味があります。「命」はもちろん「天命」の意味です。
天下の支配権である天命を、天帝=天が他の人物に下すということから、「革命」という言葉は生まれました。
3.中華思想が他国に与えた影響。日本との関係は?
さて、これまでに見てきたように、中国皇帝は「私は天からの命を受けて、徳を以て人民を支配することを認められた君主なんだ!」という強い意識を持っています。
その意識があるからこそ、中国皇帝と漢民族は、自らの国を「中華」――世界の中心である――と考えるようになったのでした。
そして、自らの政治・文化・思想を神聖なものと考えた中国皇帝や漢民族は、反対に周辺の異民族を自分たちよりも文化程度の低い野蛮な民族であると捉えました。
そして、それら異民族を、その方角別に北狄(ほくてき)・西戎(せいじゅう)・南蛮(なんばん)・東夷(とうい)と名付けたのです。(これら周辺民族を総称して夷狄(いてき)と呼びます)

もともと中華思想は、”天子がその徳を以て民を教化する”ことを理想とする「儒教」を基調とした思想です。
そこで、中国皇帝=天子は、自らの「徳」を」以てこれら四夷を教化し、文明に導くことを、自らの使命であると考えました。
簡単に言ってしまえば、「周りの民族たちは野蛮でかわいそうな人たちだから、徳のある偉い自分が支配して色々と教えてあげよう!」ということと同じです。
ビックリするほどの上から目線ですね。笑
この考え方をもとに生まれたのが、冊封体制です。
中国皇帝の徳を慕って臣下の礼を取る国=中国に朝貢してくる国と、上下関係を結ぶことで管理しようとした一方、
中国に従わない国(=中国と対等であると主張する国)の存在を認めず、武力を以て強制的に自らの支配下に置こうとしたのでした。
ここまで述べれば、古代の中国が東アジアの国々へと示していた態度や外交の有り方の特徴が見えてきます。
たとえば・・・
まだ文字を有していなかった1~2世紀の日本の様子を示す書物に、「後漢書」というものがあります。
宋の范曄(はんよう)という人物によって編纂された、中国後漢についての歴史を記した歴史書ですね。
この歴史書を構成するパートのうち、日本(倭)についての記述が少し書かれていることで有名な「東夷伝」。
この「東夷伝」はもちろん、中華である「中国」から見て東の異民族である倭人を野蛮人とみなしたことから名づけられた名称です。
時代が少し下って聖徳太子の時代。
607年に派遣された遣隋使小野妹子が隋の皇帝・煬帝に国書を奉じたときのことです。
その国書に書かれていた『日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや、云々』の部分を見て、中国皇帝は大激怒したといいます。
日本が中国皇帝にしか許されていない王者としての称号「天子」を勝手に名乗りだしたからです。
自分こそがNO.1であると信じて疑わない中国に対して、子分としか思っていなかった日本が突然「僕らって対等だよね!?」とアピールしてきたわけですから、中国側が激怒したのも当然ですね。
581~616年に成立した中国王朝「隋」や618年~907年に成立した「唐」が、朝鮮半島北東部に成立した高句麗の征討にこだわったのはなぜでしょうか。
これも中華思想と天命思想によって説明できます。
「高句麗が、No.1であるはずの中国に従おうとしなかった」からです。
そして、一度征討を始めてしまった以上、それを達成できないのは中国にとって非常にまずいことでした。
なぜなら、「私には天命がある!徳がある!」と信じて疑わない中国皇帝が高句麗の征討に失敗したとなると、それはすなわち、自分に天命を授けた天帝=天から見捨てられたことと同義であるからです。
なので、一度征討を始めてしまった手前、中国皇帝も後には引けません。
多少の国力の低下は仕方のないものとして、中国は徹底的に高句麗征討を行いました。
皇帝も必死だったのです。
(なお、高句麗征討は、新羅の協力もあり、668年に高句麗が滅亡することで終わりを迎えました。)
4.日本も中華思想を導入!‘‘東夷の小帝国‘‘
さて、ここまで古代中国が生み出した中華思想について解説してきましたが、実は、律令体制が整えられていくにつれ、日本もこの思想を導入したと言われています。
すなわち、日本の中では、「東アジアにおいては日本が ‘‘中華‘‘ であり、天皇が中国皇帝に並ぶ存在であった!」とされていたのです。
(日本としてはもちろん自分がNO.1でありたいわけですが、さすがに中国に優越しているとは言えなかったため、せめて対等であるとアピールしたわけです。)
この思想のもと、日本は”東アジア”において、「自身を中心とする」外交関係を想定してきたと言われています。
唐は隣国とみなして対等であるとする一方、新羅や渤海などは野蛮であるとして朝貢を要求したのです。
しかし、この想定はあくまで理想論にすぎませんでした。
実際のところ、唐には事実上の朝貢を行っていたのみならず、一方で新羅には朝貢要求を拒否される始末です。
このように、唐に対しては従属的な関係に置かれていた一方で、朝鮮諸国に対しては朝貢関係を築かせようとするこの外交姿勢を以て、(皮肉を込めて?)古代の日本を ‘‘東夷の小帝国‘‘ と表現することもあるようです。
さて古代において、朝廷が蝦夷の征討を徹底して行った理由もここに見えてきます。
蝦夷は、東北地方に集住した、中央とは異なる生活や文化をもった異民族のことを指す言葉です。
中華思想を導入していた朝廷は、日本における異民族であった蝦夷を「夷狄」=すなわち徳化すべき野蛮な民族であると位置づけ、天皇の徳を以て異民族である蝦夷たちを教化せしめ天皇の支配下に置こうと考えたため、徹底した征討を続けたのでした。
蝦夷征討のために臨時に編成された軍の総大将――その名称は「征夷大将軍」です。
京の置かれた奈良や京都から見て東に集住する蝦夷は「東夷」ですが、「征夷大将軍」に込められた ”東夷を征する” というこの名称にも、日本が中華思想を導入していたことが垣間見えます。
いかがでしたか?
今回は古代中国を学ぶ上で、なくてはならない3つの思想「中華思想」「天命思想」「易姓革命」について紹介しました。
「中華思想」は中国国内のみならず、アジアを中心とする周辺諸国に大きな影響を与えていきます。
さらに、‘‘東夷の小帝国‘‘日本もこの中華思想を導入し、この思想に基づいて政治や外交を行ってきたことがご理解いただけたかと思います。
あまり教科書で紹介されることのない思想ですが、この思想に触れることで、古代の中国ならびに日本の姿をよりハッキリと理解できるのではないでしょうか。
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