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【摂関政治の一時的復活】朱雀天皇の時代の出来事について解説!

更新日:2019年11月29日



△左は朱雀天皇。右は藤原忠平。



延喜の治を行った醍醐天皇の跡を継いだのが、第61代天皇朱雀天皇です。



そのあとには、これまた有名な天暦の治を推進した村上天皇が続きます。



センターでも頻出レベルの醍醐天皇・村上天皇に挟まれ、教科書や参考書等ではイマイチ存在感薄目な朱雀天皇ですが、



実は朱雀天皇が在位していた930~946年の間には、日本史において重要な出来事がいくつか発生しているのです。



今回は、朱雀天皇の時代における出来事について簡単に触れていきたいと思います!



目次―

1.一時的な摂関の復活

2.律令制の崩壊と租税賦課方式の一大転換

3.東で西で、大反乱。承平天慶の乱の発生






1.一時的な摂関の復活



死の間際に譲位した醍醐天皇の跡を受け、即位を果たしたのが朱雀天皇です。



子が多かった醍醐天皇の第11皇子であり、藤原穏子(基経の娘)をその母に持ちました。



朱雀天皇が即位したとき、まだわずか8歳の幼さであったといいます。



当然のことながら、自分で政治を行う能力はまだありません。



このことから、自分の叔父にあたる藤原忠平(母である穏子の異母兄)が摂政(のち関白)となって、実際の政務を担当しました。



朱雀天皇が在位した930~946年という時代は、当サイトが推奨する平安時代6つの時期区分では、



【三天皇による治世の時期ー宇多・醍醐・村上による天皇親政―】の時期に当たります。



天皇親政期にありながらも、この朱雀天皇の時代には、一時的に摂関が復活していたのです。



意外と盲点となりがちな知識であり、難関大の入試問題ではしばしば問われがちなポイントなので、押さえておいた方が無難でしょう。





2.律令制の崩壊と租税賦課方式の一大転換



朝廷が農民に対して与えた諸負担があまりに重いものであったために、農民たちの間では納税忌避手段としての偽籍や浮浪・逃亡などが一般化し、



これにより戸籍・計帳が形骸化してしまったことで、奈良時代より公地公民制を基本理念とする律令制は徐々に弛緩していってしまいました。



同時に、課丁(=課口。調や庸を負担する人々)の把握も困難になってしまったことから、調や庸などの朝廷収入はどんどん減っていき、



朝廷は深刻な財政難に見舞われるようになっていきます。



これに対し、桓武天皇や醍醐天皇のように積極的に改革を行い、律令制を再建しようという動きもありましたが、



結局朝廷にもこの律令制崩壊の流れを止めることができず、ついには律令制の再建を断念し、これを放棄してしまいます。



それに伴い、朝廷は租・調・庸・雑徭などといった「個人」を単位とする人頭賦課方式を捨て、



代わりに土地の面積に対して税金を賦課するという「土地」を単位にした土地賦課方式が採用されたのです。



人頭税⇒土地税へと徴税方式が転換されたのですから、これ以後、租・調・庸・雑徭などのかつての税制は放棄されてしまいます。



そして新たに、朝廷はかつて口分田として班田されていた公田を新たに「名(名田)」という租税単位へと編成しなおし、



「田堵」と呼ばれる有力農民たちにこれら「名(名田)」の耕作を請け負わせ、その耕作面積に応じて名単位で「官物」や「臨時雑役」を徴税することにしました



いわゆる「負名体制」が成立することとなったのです――。



⇓⇓⇓詳しい記事はコチラから!

【官物・臨時雑役とは?】租税賦課方式の一大転換to国司の変容&‘‘売官売位‘‘の風潮【論述対策】



以上のことは、これまでも当サイトで繰り返し述べてきたことですが、これら税制の一大転換が行われたのが、930年代、朱雀天皇&藤原忠平の時代でした。



平安時代の半ば頃に徴税方式が転換されたんだ~。租・調・庸・雑徭などの代わりに「官物」「臨時雑役」ていう新しい税が生まれたんだ~。



という事柄については知っていても、これが具体的にいつ頃行われたのかということについては意外と盲点となりがちです。






3.東で西で、大反乱。承平天慶の乱の発生



朱雀天皇の時代と言えば、これも忘れてはいけません。



日本の東で、西で、大反乱。



935年から数年間にわたって繰り広げられる、いわゆる「承平・天慶の乱」と呼ばれる一連の反乱が発生したのも、朱雀天皇の在位中なのです。



東国では一族の内紛に勝利して勢いづいた平将門が、関東にて各地の国府を襲撃して ‘‘新皇‘‘ を名乗るなど反乱を起こし(「平将門の乱」)、



一方西国では瀬戸内海の海賊を率いた藤原純友が、瀬戸内の国府や大宰府を襲撃するなど反乱を起こします(「藤原純友の乱」)。



これら一連の反乱が「承平・天慶の乱」と呼ばれているものです。



朝廷による地方支配の体制の動揺や、朝廷の軍事力の無さが露呈した一方、地方武士が力をつけて台頭してきたことを印象付けたという点で、