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【承平・天慶の乱-後編-】藤原純友の乱について解説!なぜ純友は海賊の棟梁に?2つの乱の歴史的意義とは?【論述対策】





この記事は前編・後編のセット記事です!


⇓⇓⇓ぜひとも前編からお読みくださいませ!

【承平・天慶の乱-前編-】平将門の乱について解説!現代にまで根付く将門の呪いとは?将門の怨霊とは?【徹底解説】





さて、今回は「承平・天慶の乱」に関する記事の後編です!



関東において平将門が大暴れしていたのとちょうど同じ頃、西日本では瀬戸内海域を中心に、藤原純友という男が大暴れしていました。



いわゆる「藤原純友の乱」ですね。



今回の記事では「藤原純友の乱」についてその内容や経緯について述べていくとともに、



藤原純友の人物像や、彼が反乱を起こそうと決意した理由まで、ちょっと掘り下げて解説していきたいと思います!




⇓⇓⇓該当する授業ノートはこちら!

授業ノート(PDF版)【平安時代⑦ 武士の登場と地方武士の反乱】


目次

〇前編-

1.「平将門の乱」に至るまでの経緯① 遺領をめぐる内紛

2.「平将門の乱」に至るまでの経緯② 国府襲撃と関東支配

3.「平将門の乱」の過程

4. 将門塚とは?怨霊となった平将門

5.現代にまで根付く将門の呪い?

〇後編-

1.藤原純友の乱への過程① 純友の人物像とは?

2.藤原純友の乱への過程② いつしか海賊の棟梁に・・・

3.「藤原純友の乱」の過程

4.平将門と藤原純友は共謀して反乱を起こしたのか?

5.【論述対策】「承平・天慶の乱」の歴史的意義








藤原純友の乱への過程① 純友の人物像とは?



藤原純友はもともと、藤原氏のうちで最も栄えた北家の出身です。



そのようにエリート家系に生まれながら、早くに父を亡くしてしまい、中央での出世ルートを若くして断たれてしまったという不遇な境遇を背負っていました



平安時代のこの頃はまだまだ、中央の出世に父という後ろ盾が不可欠な時代です。



父親がどのくらい大きな影響力を持っているかでその子供たちの出世ルートが決定されてしまうといっても過言ではないでしょう。



そんな純友が食っていくためには、もはや地方官として働く道しか残されていなかったのでした。





中央での出世の望みを失った純友は、父の従兄弟である藤原元名という人物に従って、伊予掾として働くことになります。



(「掾」、覚えていますか?律令制下において官職には四等官制が敷かれていましたが、



「掾」は国司の四等官である「守・介・掾・目(かみ・すけ・じょう・さかん」のうち3つ目でしたね!



すなわち、「掾」は国司の中でも少し身分の低い役職であったと考えていただければよいでしょう。)



純友の父はもともと、大宰府の次官であったといいます。



大宰府は朝鮮半島や唐などの貿易の要所であり、そこに来航する商船を狙って、海賊が頻繁に出没する地域の一つでした。



父がまだ存命中のとき、純友はこの海賊の討伐業務にあたっており、日々奮闘しては大きな成果をあげていたといいます。



元名は純友のこれまでのキャリアに目を付け、その海賊退治の才を買って彼を伊予国司に抜擢したのでした。



というのも、このころ九州と京を繋ぐ航路である瀬戸内海も海賊被害が頻発する地域であったからです。



こうして純友は、伊予掾として瀬戸内海における海賊討伐の任務にあたり、元名の期待に応えるようにここでも大いに成果を上げたのでした。





2.藤原純友の乱への過程② いつしか海賊の棟梁に・・・



さて、瀬戸内海においても海賊の平定において大いに功をあげていた藤原純友ですが、



海賊を討伐する側であった彼が、面白いことにいつしか1000捜を組織する海賊の棟梁になってしまうのです。



一体何があったのでしょう。



実は、このころ瀬戸内海で海賊行為を働いていた人々の多くが、かつて「舎人(とねり)」として朝廷内で働いていた者であったといいます。



つまり、かつて朝廷で官人として働いていたものの、職を失って、海賊にならざるを得なかった人々だったのです。



中央での出世を見込めず地方に流れざるを得なかった純友と彼ら海賊たちが、互いにシンパシーを感じあったのかどうかは分かりませんが、



お互い朝廷に対して何らかの不満を持っていたことは確かでしょう。



こうして純友は、いつしか伊予国の日振島を根拠地として配下の海賊たちをまとめあげ、



反朝廷勢力を形成し、瀬戸内海各地で海賊行為を働くようになったのでした。





3.「藤原純友の乱」の過程