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【承平・天慶の乱-前編-】平将門の乱について解説!現代にまで根付く将門の呪いとは?将門の怨霊とは?【徹底解説】

更新日:2019年12月28日





10世紀の半ばに差し掛かろうというところ、律令制は完全に崩壊し、それに基づいていた朝廷の地方支配体制は動揺していくこととなるのですが、



朱雀天皇藤原忠平摂関期の時代には、その朝廷の地方支配の動揺を大いに印象付けた大事件が発生しました。



935年から数年間にわたって発生した大反乱、「承平・天慶の乱」です。



地方武士の台頭や、朝廷の地方支配の動揺を露呈したという点で、日本史において非常に

意義のある重要な出来事ですね。



今回は、前編では「平将門の乱」、さらに後編では「藤原純友の乱」について2記事にわたって、



反乱の後に日本三大怨霊となってしまった平将門の現代にまで至る怨霊伝説や、



海賊の取り締まりをしていたはずがいつの間にか自身が海賊の棟梁となってしまった藤原純友のエピソードといった



少しディープなところまで掘り下げてこの「承平・天慶の乱」について解説していきます!



⇓⇓⇓該当する授業ノートはコチラから!

授業ノート(PDF版)【平安時代⑦ 武士の登場と地方武士の反乱】




目次―

〇前編

1.「平将門の乱」に至るまでの経緯① 遺領をめぐる内紛

2.「平将門の乱」に至るまでの経緯② 国府襲撃と関東支配

3.「平将門の乱」の過程

4. 将門塚とは?怨霊となった平将門

5.現代にまで根付く将門の呪い?






 

1.「平将門の乱」に至るまでの経緯① 遺領をめぐる内紛

 


さて、それではどのようにして「平将門の乱」に至ったのか、その経緯について述べていきましょう。



まずそもそも、なぜこの平氏は関東地方に土着をしていたのでしょう。



その始まりは平高望(高望王)と呼ばれる人物にあります。



桓武天皇の子孫であり、「平(たいら)」という姓を賜った桓武平氏の家系には実は諸流あるのですが、



その中でも後に伊勢平氏などの諸氏を輩出した最も有名な流れこそ、この高望王(平高望)から始まるものでした。



平氏という姓を賜り臣籍降下した平高望は、京にいても出世の見込みがなかったために、



上総介として関東に下ることを決断し、そして同地に土着して勢力基盤を広げたのです。



この土着こそが、平安時代半ば頃において平氏が関東地方を拠点とした始まりとなったのでした。







「平将門の乱」と呼ばれる一連の反乱がおこる契機となったのは、この桓武平氏による、所領をめぐる内輪もめにありました。



平高望の子の一人に平良将という人物がいたのですが、彼の死後に、その遺領をめぐって内紛が勃発したのです。



良将は下総国に所領を持っており、同地に土着して勢力を拡大していました。



一方で、良将の子である将門は、京に上って中級官人として朝廷に出仕していたのですが、



しかしながら父である良将が思いがけず早逝してしまったために、京での任務を終えた将門は関東に戻ることを決断します。



そして関東に戻った将門は、亡き父のものであったはずの所領の多くが、良将の兄弟(つまり将門の叔父)である



平国香(くにか)良兼らによって、独断で奪われてしまっていたことを知るのです。



これに平将門がブチ切れ、後に良将の遺領をめぐる争いが勃発することとなったのでした。



実際にはこの内紛はもっとたくさんの人物の利害関係や因果関係とが複雑に絡み合っているのですが、



混沌としたそのすべてを覚える必要は全くありません。



父である良将の遺領をきっかけに平将門は叔父である平国香らと合戦を繰りかえし、最後には935年ついに国香を討ち取ることに成功した――



このことのみ覚えていただければよいでしょう。





 

2.「平将門の乱」に至るまでの経緯② 国府襲撃と関東支配

 


しかし、国香を殺害したものの、一族の争いはそこで終わりませんでした。



将門の叔父であった良兼や国香の息子の貞盛、さらには嵯峨源氏の源護なども巻きこまれていき、



この一連の内紛はどんどん泥沼化していくのです。



さらに将門は、その延長とも言える合戦にて、この一族とは全く関係のない地方官人たちの領地争いにも参画していくようになります。



もはやこの時期の関東地方において、朝廷の地方支配はもはやほとんど機能していなかったということもできるでしょう。



京都の朝廷がどうすることもできないまま、関東地方は大混沌に陥っていたのです。







そして939年11月、この一連の戦いの中で将門はついに常陸国の国府を襲撃してしまいます。



これまでの戦いはあくまで、平氏一族内での「私闘」という扱いでしたが、国の役所である国衙を攻撃し占領してしまったことは、



図らずとも将門が朝廷に対して反旗を翻してしまったことを意味します



しかし、それでも将門の進撃は止まりませんでした。



将門はそのまま破竹の勢いで兵を進めていき、続いて下野国上野国の国府を襲撃し、占領します。



この勢いに恐れをなした諸国の受領たちは次々と逃げ出し、そのまま将門は武蔵国や相模国までも手中に納め、



こうして将門は関東のほとんど全域を支配下においてしまったのでした。



「平将門の乱」はこのようにして勃発したのです。






 

3.「平将門の乱」の過程

 


国の一機関である国府を襲撃するのみならず、関東8か国を自らの支配下に置いた将門は、



「自分こそが関東における新しい天皇だ!」という意味をこめ、自ら ‘‘新皇‘‘ と称します。



将門に朝廷を討って全国支配する意図はなかったと言われていますが、それでも関東・東国をこれから支配していこうという上で、



その権威付けをするために、この宣言をしたのだと言われています。



(まあ確かに将門自身桓武天皇の5代めの孫ですから、ある意味、将門に天皇としての資格がなかったとはあながち言えないかもですね。笑)







さて、国府を襲撃・占領するならず関東地方における大部分を実質的に支配し、さらに自らを‘‘親皇‘‘と称するようになってしまった将門を、



当然のことながら朝廷が黙ってみているはずがありません。



朝廷は将門を、朝廷に対して反乱を起こした反逆者として位置づけ、鎮圧へと乗り出すこととなります。



また、平将門の乱となんの因果関係もないのですが、ほぼ同時期に藤原純友が西日本で反乱を起こしていたことにも、朝廷は大きな衝撃を受けていました



このことからも朝廷は一刻も早く将門を追討するべく、急いで兵力を組織し、そして藤原忠文を征東大将軍とする追討軍が派遣されたのです。







一方、将門に追われ身を隠していた平貞盛は、将門追討の令を受けると下野国の押領使藤原秀郷(ひでさと)を味方につけ、




合計で4000人ほどの兵を集めることに成功します。



対して将門はわずか1000人ほどの兵力しか集められませんでしたが、そのまま出陣し、平貞盛&藤原秀郷の軍を迎え撃ったのでした。



そのまま数度の戦いを経ていく中で、貞盛&秀郷軍がさらに兵を集めた一方、将門の軍はどんどん兵力が減少していきます。



将門自身も自ら戦の先頭にたち、大いに奮戦しましたが、940年の2月半ば頃の戦いにおいて、



どこからか飛んできた矢に額を射抜かれ、将門は無念のうちに、その人生に幕を閉じることとなったのです。







 

4.将門塚とは?怨霊となった平将門

 


さて、前半最後となるこの4章では、平将門の死後について少し紹介したいと思います。



入試で問われるようなものではなく、あくまで日本史の豆知識的なものですので、気張らずにスクロールしていただければ幸いです。







実は、平将門には怖い逸話が多く残されています。



貞盛&秀郷の軍によって討たれたのち、将門の胴体は現在の茨城県にある延命院に埋葬されたのですが、



首は平安京へと持って行かれ、京都の七条河原に晒されたといいます。



しかし、将門の無念の思いはよっぽど強かったのか、将門の首は何か月経っても腐りもせず、



それどころか眼をぐっと見開いては歯ぎしりをし、「俺の身体はどこだ!首を繋いでもう一戦しよう!」という叫び声が夜な夜な響いていたという怖い逸話が残っているのです。



そしてあるとき、晒されていた将門の首が突然、白い光を放ちながら胴体を求めて東の方へと飛び去って行ったといいます。



関東を目指して空高く飛び上がった将門の首は、途中で力尽きて地上に落下してしまったとされており、



そんな無念やるかたない将門を偲んだ人々によって、将門の首塚が建てられたのです



同じような首塚伝承は各地に残っているのですが、その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町にある



平将門の首塚と伝えられている「将門塚」とよばれるものです。



しかし、それでも将門の霊は鎮まることなかったようで、将門の墳墓の周りで天変地異が頻発したりするなどすると、



将門の怨霊の祟りのせいだと噂されるようになり、平将門は菅原道真崇徳上皇とともに ‘‘日本三大怨霊‘‘ の一人としてカウントされるようになったのでした。





 

5.現代にまで根付く将門の呪い?

 


さて、実はその後、後世に至っても将門のすさまじい怨念は続いているといいます。



現代に至っても、将門の呪いのせいであるとされる奇異な出来事が、将門塚の周辺で度々発生しているのです。



実は将門塚はこれまでに何度か、移転や撤去の危機に直面したことがありました。



しかしそのたびに、工事に関わった関係者の不可解な事件・事故が発生し、中止を余儀なくされてきたのです。



最初のキッカケは1923年に発生した関東大震災のときでした。



将門塚の近くに建てられていた大手町の大蔵省庁舎が全焼し、仮庁舎の建設に伴い、将門塚の取り壊しが決まったのです。



しかし、その後大蔵省の役人たちが次々に命を落とし、当時の大蔵大臣を含む14人が犠牲になるという不可解な出来事が発生してしまいます。



後に仮庁舎は壊されたのですが、今度は1940年には新たに建てられていた大蔵省庁舎が落雷によって全焼してしまったのです。



これら一連の奇異は、将門塚を疎かにしたことに対する祟りだったのではないかと噂されたといいます。



続いての異変が発生したのは戦後間もないことでした。



戦後すぐに、日本を占領していたGHQによって、大手町付近の区画整理が行われていたのですが、



その際に邪魔になった首塚を取り壊し始めると、不審な出来事が相次ぐようになり、



ついにはブルドーザーが突如横転して、死者まで出るという騒ぎになってしまったといいます。



これも将門の祟りではないかと大いに不気味がられたということです。



高度成長期の時代にも、首塚の土地の一部が売却され、そこに日本長期信用銀行が建てられたことがあったのですが、



その際にも塚に面した部屋の人々が次々と病気にかかってしまったと言われています。



それ以来、首塚に隣接したビルは塚に背を向けないようフロアや机の位置がレイアウトされていたり、



従業員が首塚を見下ろすことがないよう塚に面した壁には窓が設けられないようになっているといった配慮がされているという噂もあるようです。



そのほかにも、将門塚と将門にゆかりのある6つの神社を線でつなぐと北斗七星の形になるだとか、



山手線は将門の怨霊を閉じ込める結界の役割を果たすために環状に線路が敷かれたのだだとか、



どうやら将門の怨念に関しては様々な都市伝説があるようです。



もはやここまでくると完全にオカルトの世界ですが、信じるか信じないかはあなた次第。





 
いかがでしたか?


今回は、「承平・天慶の乱」のうち、平将門の乱について解説していきました。



後半では平将門の怨霊や、将門塚にまつわるちょっと怖い伝説について述べていきましたが、



この将門塚はパワースポットとしてもご利益があるそうで、関東地方における強力な守り神として、多くの人が参拝に訪れています。



将門自身が非常に強い武将であったことから、この将門塚に参拝した人は勝負事に強くなれるとも言われていますので、



ぜひ一度訪れてみたらいかがでしょうか。




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