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【徹底解説】良房の外戚政策と応天門の変について解説!その歴史的意義は?

更新日:7月12日



(画像は院政期の文化史に登場する『伴大納言絵巻』の四つの場面。)




承和の変にて恒貞親王を廃太子に追い込み、道康親王を皇太子に据えることに成功した藤原良房ですが、承和の変の8年後の850年には念願叶って道康親王が文徳天皇として即位しました。



良房にとって自分の甥が天皇となったのです。



自分にとって都合の良い文徳天皇の即位により、良房は自らの政治力を大いにふるうことができたといいます。


⇓⇓⇓前回までの復習。承和の変についての詳しい記事はコチラ!

【良房の陰謀】承和の変はなぜ発生した?真の目的は恒貞親王の排斥?【理由を解説】






今回の記事の紹介範囲はここからです。



良房はこの後、自らの権力をさらに盤石なものにするべく、文徳天皇に対して外戚政策を行うとともに、承和の変に引き続いて2つ目の他氏排斥運動を行いました。



今回の記事では、良房の行った外戚政策について紹介するとともに、藤原氏北家による2つ目の他氏排斥事件である「応天門の変」の内容とその歴史的意義について、紹介していきます!



⇓⇓⇓当記事に該当する授業ノートはコチラ!

授業ノート(PDF版) 【平安時代④ 藤原北家の台頭と摂関政治のはじまり】




目次―

1.良房の外戚政策

2.「応天門の変」とは?その概要を解説!

3.応天門の変の歴史的意義は?







1.良房の外戚政策



藤原氏北家は、「外戚政策」と「他氏排斥運動」とよばれる2つの策略を並行して行うことで台頭・発展していきました。



もちろん良房も例外ではありません。



道康親王を皇太子に据えることに成功した後も、良房は自分の権力をさらに盤石なものにするべく、これらの政策をしっかりと実行しています。



良房の行った外戚政策について述べる前に、まずは外戚政策について、簡単にその定義を確認しましょう。



外戚政策とは、娘を天皇の后にし、生まれた皇子を次期天皇に据えることで、その天皇の外祖父として摂政関白の地位について政治の実権を握ろうとする政策のことです。



外祖父とは、ある人から見てその母親の父にあたる人物を指しています。言い換れば、ある子供にとって母方の祖父にあたる人物ですね。



天皇にとって母方の祖父にあたる人物が摂政・関白となって、天皇を補佐するという名目のもと政治の実権を握る。



これが摂関政治の仕組みです。



詳しくは以下の記事をごらんください。



⇓⇓⇓外戚政策に関するもっと詳しい記事はコチラ!

【理由・仕組みを解説!】なぜ藤原氏は外戚政策を行うことで摂政・関白となれたのか?【ポイントは‘‘妻問婚‘‘】【サザエさんで考えろ!?】







良房は、皇太子となった道康親王がまだ即位する前に、自分の娘である明子を同親王に嫁がせました。



これが、良房のおこなった外戚政策です。



かくして良房は、天皇家と外戚関係を構築することに成功したのです。



そして850年に、道康親王は文徳天皇として即位したのですが、同年の3月には良房の希望通り、明子は元気な皇子を産んでくれました。



良房待望の男の子、惟仁親王の誕生です。



その生まれた皇子から見て、良房は母方の祖父すなわち外祖父にあたるわけですね。







病弱であった文徳天皇自身は、朝廷の会議に出ることも少なく、政治の実権はこのときすでに実質的に良房に握られていたといいます。



そして、即位の8年後の858年、文徳天皇の病状は突然悪化し、そのまま崩御してしまいました。



32歳の若さであったといいます。



生前の文徳天皇は、自分が非常に寵愛していた第1皇子・惟喬親王(惟仁親王にとって6歳年上の異母兄)を次期天皇として期待していたようですが、良房の圧力もあり、結局のところ次期天皇の座にはまだ幼さの残る惟仁親王がつくことになりました。



惟仁親王は、このときまだわずか9歳。



平安時代きっての幼帝――清和天皇の即位でございます。



天皇といってもわずか9歳。当然のことながら、自分で政治を行う能力はまだありません。



そのために、外祖父であった良房がその後ろ盾となり、天皇の政治を補佐するという名目のもと、実質的な摂政にあたる立場となって政治を行いました



後に本格的に確立される藤原氏北家による摂関体制の萌芽は、すでにこの時から始まっていたのですね。





2.「応天門の変」とは?その概要を解説!