更新日:2021年7月12日

(画像は院政期の文化史に登場する『伴大納言絵巻』の四つの場面。)
承和の変にて恒貞親王を廃太子に追い込み、道康親王を皇太子に据えることに成功した藤原良房ですが、承和の変の8年後の850年には念願叶って道康親王が文徳天皇として即位しました。
良房にとって自分の甥が天皇となったのです。
自分にとって都合の良い文徳天皇の即位により、良房は自らの政治力を大いにふるうことができたといいます。
⇓⇓⇓前回までの復習。承和の変についての詳しい記事はコチラ!
【良房の陰謀】承和の変はなぜ発生した?真の目的は恒貞親王の排斥?【理由を解説】
今回の記事の紹介範囲はここからです。
良房はこの後、自らの権力をさらに盤石なものにするべく、文徳天皇に対して外戚政策を行うとともに、承和の変に引き続いて2つ目の他氏排斥運動を行いました。
今回の記事では、良房の行った外戚政策について紹介するとともに、藤原氏北家による2つ目の他氏排斥事件である「応天門の変」の内容とその歴史的意義について、紹介していきます!
⇓⇓⇓当記事に該当する授業ノートはコチラ!
授業ノート(PDF版) 【平安時代④ 藤原北家の台頭と摂関政治のはじまり】
目次―
1.良房の外戚政策
2.「応天門の変」とは?その概要を解説!
3.応天門の変の歴史的意義は?
1.良房の外戚政策
藤原氏北家は、「外戚政策」と「他氏排斥運動」とよばれる2つの策略を並行して行うことで台頭・発展していきました。
もちろん良房も例外ではありません。
道康親王を皇太子に据えることに成功した後も、良房は自分の権力をさらに盤石なものにするべく、これらの政策をしっかりと実行しています。
良房の行った外戚政策について述べる前に、まずは外戚政策について、簡単にその定義を確認しましょう。
外戚政策とは、娘を天皇の后にし、生まれた皇子を次期天皇に据えることで、その天皇の外祖父として摂政・関白の地位について政治の実権を握ろうとする政策のことです。
外祖父とは、ある人から見てその母親の父にあたる人物を指しています。言い換れば、ある子供にとって母方の祖父にあたる人物ですね。
天皇にとって母方の祖父にあたる人物が摂政・関白となって、天皇を補佐するという名目のもと政治の実権を握る。
これが摂関政治の仕組みです。
詳しくは以下の記事をごらんください。
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【理由・仕組みを解説!】なぜ藤原氏は外戚政策を行うことで摂政・関白となれたのか?【ポイントは‘‘妻問婚‘‘】【サザエさんで考えろ!?】
良房は、皇太子となった道康親王がまだ即位する前に、自分の娘である明子を同親王に嫁がせました。
これが、良房のおこなった外戚政策です。
かくして良房は、天皇家と外戚関係を構築することに成功したのです。
そして850年に、道康親王は文徳天皇として即位したのですが、同年の3月には良房の希望通り、明子は元気な皇子を産んでくれました。
良房待望の男の子、惟仁親王の誕生です。
その生まれた皇子から見て、良房は母方の祖父すなわち外祖父にあたるわけですね。

病弱であった文徳天皇自身は、朝廷の会議に出ることも少なく、政治の実権はこのときすでに実質的に良房に握られていたといいます。
そして、即位の8年後の858年、文徳天皇の病状は突然悪化し、そのまま崩御してしまいました。
32歳の若さであったといいます。
生前の文徳天皇は、自分が非常に寵愛していた第1皇子・惟喬親王(惟仁親王にとって6歳年上の異母兄)を次期天皇として期待していたようですが、良房の圧力もあり、結局のところ次期天皇の座にはまだ幼さの残る惟仁親王がつくことになりました。
惟仁親王は、このときまだわずか9歳。
平安時代きっての幼帝――清和天皇の即位でございます。
天皇といってもわずか9歳。当然のことながら、自分で政治を行う能力はまだありません。
そのために、外祖父であった良房がその後ろ盾となり、天皇の政治を補佐するという名目のもと、実質的な摂政にあたる立場となって政治を行いました。
後に本格的に確立される藤原氏北家による摂関体制の萌芽は、すでにこの時から始まっていたのですね。
2.「応天門の変」とは?その概要を解説!
さて、清和天皇の実質的な摂政として政治を行い始めた良房ですが、藤原氏北家の勢力をさらに強固なものにするために、清和天皇の即位から8年後に「他氏排斥運動」を再び行いました。
それが、866(貞観8)年に発生した「応天門の変」です。
事件の内容を解説していきます。
866年の閏3月10日、平安宮の大内裏の正門であった「応天門」と呼ばれる門が、突然何者かによって放火され、炎上してしまうという事件が発生しました。
突然、平安京の中心で火災が発生したのです。
しかも、応天門は大内裏のうち、重要な儀式などが行われた朝堂院に入るための正門であったため当然朝廷は大騒ぎになりました。
しばらくして火災は鎮圧され、幸運なことにそこまで大事には至らなかったといいますが、演技の悪い不審火の勃発を受け人々は不安に怯えたといいます。
そして犯人捜しが始まることとなったのですが、ほどなくして、大納言伴善男が次のように口を開きました――
伴善男「応天門に放火させたのは左大臣の源信(みなもとのまこと)である! 応天門は大伴氏(伴氏)が造営したものであり、伴氏を呪いたかった源信が火をつけたのだ!!」――
これを聴いた当時の右大臣・藤原良相は、源信の捕縛を命じて独断で兵を出し、あっという間に源信の邸を包囲してしまいます。
放火の罪を着せられた源信とその一族は絶体絶命のピンチに立たされ、絶望して大いに嘆き悲しんだというものの、この一件を聞いた良房の便宜によって、証拠の不十分さなどを理由にとりあえず無実とされ事なきを得たといいます。
では、真犯人は一体誰なのか・・・朝廷が大いに頭を悩ませる中、大宅鷹取という男から突然訴えがありました。
大宅鷹取「源信は無実です! 放火した真犯人は、伴善男の息子です...!!」
この証言を以て伴善男は捕らえられ、ついには自分が息子に放火させたことを自白したといいます。
伴善男は、左大臣であった源信を失脚させる意図をもって、このような自作自演を行ったのでした。
もちろん伴善男は有罪となり、息子とともに流罪となったほか、伴氏のみならず共謀者とされた紀夏井・豊城らも有罪の判決を受けてしまいます。
藤原氏北家のライバルであった旧来豪族の伴氏(もと大伴氏)と紀氏がこの事件をきっかけに没落することとなった一方、
事件の処理にあたった藤原良房は無実の源信を保護し、彼を陥れようとした伴善男をしっかりと糾弾したために、逆にその名声が大いに高まりました。
この事件を契機として良房は、自らの権力の強化とライバルの没落という2つの大きな利益を手にすることとなったのです。
3.応天門の変の歴史的意義は?
余談ですが、良房の計らいにより難を逃れた源信は、この冤罪がよっぽどトラウマとなったのかこの事件を機に政界からは身を引いています。
さらに、伴善男の証言を受けて独断で兵を出した右大臣の藤原良相(彼も北家の人間で良房の弟であるが、良房とはライバル関係にあたる)は、処罰こそ与えられなかったものの、この事件を機に政治的な影響力を失ったと言われています。
こうして、大納言・左大臣・右大臣と、良房の邪魔者となり得る重要な役職の人々が、結果的にみんな一掃されてしまったのでした。
あまりに出来過ぎた帰結ですね。笑
このようにあまりに出来過ぎていることからこの事件は、良房が当時の朝廷の中で大きな力を持っていた源信や伴善男らを排斥するべく、応天門の火災を巧みに利用して裏工作を行ったのだと評価する見方もあるそうです。
また、この事件のポイントしてもう一つ、良房はこの事件の混乱に乗じて、ちゃっかり清和天皇の正式な摂政となることにも成功してしまいます。
人臣として摂政となったのは、良房が初めてです。
最後に、応天門の変の歴史的意義をまとめてみましょう。
応天門の変の結果、
①源信や伴善男など有力貴族が実質的に政界から一掃される
②伴氏や紀氏など藤原氏北家のライバルであった有力豪族が没落した
③この事件の処理にあたった良房はその名声を高めることに成功し、さらには人臣初となる摂政にまで任命された
と言えるでしょう。
こうして、藤原氏北家の隆盛はさらに加速し、藤原摂関政治の基礎が築かれることとなったのでした。
応天門の変は良房にとっておいしいことだらけの政変であったのですね。
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