更新日:2021年7月12日

(※画像は醍醐天皇)
さて、寛平の治を推進してきた宇多天皇でしたが、皇太子の敦仁親王が元服すると同時に、突如彼に対して譲位を行いました。
こうして登場したのが醍醐天皇です。
宇多天皇がまだ幼少の醍醐天皇に突如即位を行ったのには、藤原氏北家からの自由状態を保持したり、息子を即位させることで自分の皇統の正統性を主張するという意図があったとも言われています。
なお、宇多天皇が譲位するときに幼い醍醐天皇に与えた、天皇としての心構えや作法・朝廷での業務や儀式などが詳細に述べられた教訓書『寛平御遺誡』も入試で問われることがあるので、頭の片隅にでも入れておくとよいでしょう。
醍醐天皇自身も、父である宇多天皇に引き続いて、自ら積極的に改革を行うなど諸政策を実行し天皇親政を展開していきました。
「延喜の治」と呼ばれる政治改革の始まりです。
今回の記事では、醍醐天皇が行った一連の政治改革である「延喜の治」と「延喜の荘園整理」について解説していきます!
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授業ノート(PDF版)【平安時代⑤ 藤原摂関期の中断―三天皇による親政―】
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【寛平の治】宇多天皇と菅原道真の政治。親政を展開できたのはなぜ?遣唐使が廃止された背景・理由は?
目次―
1.醍醐天皇「延喜の治」まとめ
2.それぞれの政策について解説!
3.延喜の荘園整理とは?―律令制再建への挑戦と挫折―
1.醍醐天皇「延喜の治」まとめ
「延喜の治」とは、醍醐天皇によって運営された901~923年間における治世のことです。
のちの村上天皇によって行われた「天暦の治」と並べて、天皇親政が最も充実していた十数年間であるとして、後世において理想視された時代でした。
基経死後に宇多天皇が推進した「寛平の治」のように、藤原氏の摂関政治が一時中断され、天皇自らが政治を行う時代が訪れたのです。
では、具体的に醍醐天皇はどのような政策を行ったのでしょう。
黒板をご覧ください。

大学入試においては以上のものを押さえておけばよいでしょう。
次の章からは、それぞれの政策について詳しく解説していきます!
2.それぞれの政策について解説!
『日本三大実録』とは、858~887年間の清和・陽成・光孝天皇の3代にわたる時代を記述した歴史書(国史)であり、六国史の最後となる書物でございます。
もともとこの書物の編纂は、宇多天皇が菅原道真や藤原時平に命じたことで始められたのですが、宇多天皇の譲位に伴いその編纂作業が一時中断されていたのです。
そこで、醍醐天皇が改めてこの書物編纂の勅命を発し、そして901(延喜元)年、ついに完成を迎えたのでした。
宇多天皇に引き続き、醍醐天皇も和歌の振興を行います。
醍醐天皇の時代には、日本初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が成立しています。
全部で1100首の歌がまとめられた全20巻からなるこの歌集は、醍醐天皇の勅命を受けた紀貫之や凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)らによって編纂されたと言われています。
古今和歌集の成立からもわかるように、この時代には再び和歌が隆盛しつつありました。
男女関係なく作れる詩形であり、互いに詠み交わされることができるという和歌の社交的な性格から、和歌はその性別や関係性を問わず、人々の交際において挨拶や文通の役割を果たし、平安貴族たちの華やかな生活を彩る文化の一つとなったのです。
このように、宇多天皇の時代より朝廷によって行われていた文化政策は、大きな成功をおさめたのでした。
さて、嵯峨天皇や清和天皇の時代に引き続き、延喜の治においても格式の編纂が行われています。
醍醐天皇の時代には、「延喜格」「延喜式」が作成されました。
律・令・格・式それぞれの違いについてきちんと説明できますでしょうか。
律とは、今で言う刑法に当たる法律です。
令とは、刑法以外の一般法全般のこと。行政法や民法など、幅広い範囲の法律を含んでいます。
当初、朝廷はこの律と令のみ制定して政治を行おうとしましたが、だんだんと時代の流れにそぐわない場面が出てくるようになり、新たな判例やケースが登場した際には必要に応じて律や令を補完するための追加法として「格」が制定されてきました。
現代だって同じです。現状に合っていない法律は日々改正され、そして新たな法律が追加されていきますよね。
そして、これら律・令・格の施行細則をまとめたものが「式」と呼ばれています。これらの法律を施行する上で必要なことを定めた、細かいルールのようなものだと捉えていただければよいでしょう。
さて、上に述べた通り、古代の日本では律や令のほかにも格や式などが折々制定されていたのですが、平安時代の前期頃には、それらの数が非常に増えかなり煩雑なことになってしまっていました。
それぞれ嵯峨天皇・清和天皇のもとで編纂された『弘仁格式』『貞観格式』は、これらの法律を分かりやすくまとめることを目的として作られたものです。
醍醐天皇の時代に編纂された『延喜格式』も同様のものと考えていただいていいでしょう。
延喜格は、869~907年の間位に新たに追加された格のうち、大事なものだけを新たにまとめなおしたものであり、907年に完成した後、908年より施行されました。
弘仁式・貞観式の中から大事な式だけをまとめなおした延喜式は、905年より編纂が開始され、927年には完成を迎えた後、967年より施行されたと言われています。
3.延喜の荘園整理とは?―律令制再建への挑戦と挫折―
さて、最後の章では延喜の荘園整理令やその法令、さらには最終班田の実施と三善清行による『意見封事十二箇条』について解説していきます。
天皇権威を再び高揚させることを望んでいた醍醐天皇は、律令制の再建を目指そうとしたと言われています。
その考えのもと、醍醐天皇は律令制の基本原則である公地制の理念に立ち返ろうとし、戸籍・計帳に基いたかつてのような班田収授法を再び機能させようとしたのです。
「統治システムを律令国家当初のものに戻そう」――醍醐天皇はそのように考えたのでした。
班田収授法を再び機能させるための最初のステップとして、902年に行われたのが「延喜の荘園整理」でした。
「荘園整理」とは、文字通り「荘園を整理すること」を指す言葉であり、そのための法令が荘園整理令です。
荘園整理は、各荘園を調べることで違法な手続きを経て成立した荘園を停止し、国務の妨げとなりそうな荘園の土地を没収することを目的に行われました。
こののち荘園整理は天皇の代替わりなどに度々行われることとなるのですが、その最初のものがこのときの「延喜の荘園整理」だったのです。
醍醐天皇は902年、自らが発した「延喜の荘園整理令」を根拠に、日本全国で荘園整理を行い、口分田となる土地を確保することに成功します。
そして、同年902年にそのまま班田を実施したのでした。
・・・しかし、醍醐天皇による律令制再建の挑戦は、914年にあっさりと終わりを迎えることになります。
キッカケは、三善清行が「意見封事十二箇条」を提出したことにありました。
「意見封事十二箇条」とは、かつて三善自身が国司として地方行政にあたっていたときの経験をもとにして書かれた政治意見書です。
そこには、地方行政の実情や、地方行政の障害となる事柄に関する意見が、説得力に富んだ根拠を伴って、12箇条にわたって記されていたといいます。
この意見書内で三善は、醍醐天皇に対して、律令制当初のシステムに戻ることの困難性を指摘しているのです。
平安時代に入ったころから、貧農民による偽籍や浮浪・逃亡はますます増加し、戸籍・計帳はもはや実情に全く合致しない役に立たないものとなっていました。
そして、女性と偽った口分田所有者が増加したために、地方財源である租の税収はどんどん減少していました。
また同時に、偽籍や浮浪・逃亡の増加によって「課丁=調・庸・雑徭を負担する人」の把握が困難になったことで、国家財政の基礎である調・庸の収入も大きく減少し、政府は深刻な財政難を迎えてしまっていたのです。
さらに、持ち主がいなくなった元口分田の土地は、寺社や有力貴族の荘園となり、中央財源の減少に拍車をかけていたといいます。
このように、当時の土地状況はかなり悲惨なものであり、‘‘公地公民‘‘ を原則とした律令体制は、もはや崩壊寸前でした。
このような状況を憂いた醍醐天皇は、先ほど見たように改革を行おうとしましたが、実際なかなか思うような成果は出なかったといいます。
もはや律令制は、修復が効かないくらいダメになってしまっていたのです。
それを鑑みた三善清行は、この意見封事十二箇条の中で、もはや現段階においてはかつてのような戸籍・計帳に基づく税収確保を行うことは難しいのではないかと指摘したのでした。
三善「醍醐天皇!律令制当初の原則に立ち返りたいそのお気持ちはよくわかりますが、正直なところ崩壊が進み切った今からでは、元に戻すのは難しいでしょう・・・。」
醍醐「ううむ。。。しょうがない。。。律令制の再建は断念しよう」
こうして、醍醐天皇は公地公民制に基づいた律令制の再建を断念し、やがて放棄することを
決断します。
続く朱雀天皇の時代に、戸籍・計帳に基づいた租・調・庸などの人頭税が廃止され、新たに官物・臨時雑役など土地の面積を基準にした土地税が採用されるなど、徴税方式の一大転換が行われるのでした。
醍醐天皇が延喜の荘園整理令を題したのは902年。ついで三善清行が意見封事十二箇条
を奏上し、それを受け入れたのは914年です。
この「12年」というのも実はポイントです。
この数字は、桓武天皇の時代、畿内において班田の頻度が「12年1班」へと改められていたことが反映されています。
902年に班田を行った後、その12年後、再び班田するかどうか決めるタイミングで、今後の班田の中止が決定されたのでした。
なお、だからこそ902年の班田が結果的に最終班田になるのです。
いかがでしたか?
藤原氏北家の力が比較的抑圧させられていたこの時代において、藤原氏北家にとらわれない人材登用を行った醍醐天皇は、自らも積極的に政治を行い、そして諸改革を実行していったことがお分かりいただけたかと思います。
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