•  

【延喜の治】「延喜の荘園整理」とは?なぜ行われた?『意見封事十二箇条』とは?醍醐天皇の諸政策について解説!

更新日:7月12日


(※画像は醍醐天皇)




さて、寛平の治を推進してきた宇多天皇でしたが、皇太子の敦仁親王が元服すると同時に、突如彼に対して譲位を行いました。



こうして登場したのが醍醐天皇です。



宇多天皇がまだ幼少の醍醐天皇に突如即位を行ったのには、藤原氏北家からの自由状態を保持したり、息子を即位させることで自分の皇統の正統性を主張するという意図があったとも言われています。



なお、宇多天皇が譲位するときに幼い醍醐天皇に与えた、天皇としての心構えや作法・朝廷での業務や儀式などが詳細に述べられた教訓書『寛平御遺誡』も入試で問われることがあるので、頭の片隅にでも入れておくとよいでしょう。



醍醐天皇自身も、父である宇多天皇に引き続いて、自ら積極的に改革を行うなど諸政策を実行し天皇親政を展開していきました。



延喜の治」と呼ばれる政治改革の始まりです。



今回の記事では、醍醐天皇が行った一連の政治改革である「延喜の治」と「延喜の荘園整理」について解説していきます!



⇓⇓⇓当記事に該当するノートはコチラ!

授業ノート(PDF版)【平安時代⑤ 藤原摂関期の中断―三天皇による親政―】


⇓⇓⇓宇多天皇『寛平の治』についての記事はコチラ

【寛平の治】宇多天皇と菅原道真の政治。親政を展開できたのはなぜ?遣唐使が廃止された背景・理由は?



目次―

1.醍醐天皇「延喜の治」まとめ

2.それぞれの政策について解説!

3.延喜の荘園整理とは?―律令制再建への挑戦と挫折―





1.醍醐天皇「延喜の治」まとめ



延喜の治」とは、醍醐天皇によって運営された901~923年間における治世のことです。



のちの村上天皇によって行われた「天暦の治」と並べて、天皇親政が最も充実していた十数年間であるとして、後世において理想視された時代でした。



基経死後に宇多天皇が推進した「寛平の治」のように、藤原氏の摂関政治が一時中断され、天皇自らが政治を行う時代が訪れたのです。



では、具体的に醍醐天皇はどのような政策を行ったのでしょう。



黒板をご覧ください。







大学入試においては以上のものを押さえておけばよいでしょう。



次の章からは、それぞれの政策について詳しく解説していきます!





2.それぞれの政策について解説!



日本三大実録』とは、858~887年間の清和・陽成・光孝天皇の3代にわたる時代を記述した歴史書(国史)であり、六国史の最後となる書物でございます。



もともとこの書物の編纂は、宇多天皇が菅原道真や藤原時平に命じたことで始められたのですが、宇多天皇の譲位に伴いその編纂作業が一時中断されていたのです。



そこで、醍醐天皇が改めてこの書物編纂の勅命を発し、そして901(延喜元)年、ついに完成を迎えたのでした。







宇多天皇に引き続き、醍醐天皇も和歌の振興を行います。



醍醐天皇の時代には、日本初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が成立しています。



全部で1100首の歌がまとめられた全20巻からなるこの歌集は、醍醐天皇の勅命を受けた紀貫之凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)らによって編纂されたと言われています。



古今和歌集の成立からもわかるように、この時代には再び和歌が隆盛しつつありました。



男女関係なく作れる詩形であり、互いに詠み交わされることができるという和歌の社交的な性格から、和歌はその性別や関係性を問わず、人々の交際において挨拶や文通の役割を果たし、平安貴族たちの華やかな生活を彩る文化の一つとなったのです。



このように、宇多天皇の時代より朝廷によって行われていた文化政策は、大きな成功をおさめたのでした。







さて、嵯峨天皇や清和天皇の時代に引き続き、延喜の治においても格式の編纂が行われています。



醍醐天皇の時代には、「延喜格」「延喜式」が作成されました。



律・令・格・式それぞれの違いについてきちんと説明できますでしょうか。



律とは、今で言う刑法に当たる法律です。



令とは、刑法以外の一般法全般のこと。行政法や民法など、幅広い範囲の法律を含んでいます。



当初、朝廷はこの律と令のみ制定して政治を行おうとしましたが、だんだんと時代の流れにそぐわない場面が出てくるようになり、新たな判例やケースが登場した際には必要に応じて律や令を補完するための追加法として「格」が制定されてきました



現代だって同じです。現状に合っていない法律は日々改正され、そして新たな法律が追加されていきますよね。



そして、これら律・令・格の施行細則をまとめたものが「式」と呼ばれています。これらの法律を施行する上で必要なことを定めた、細かいルールのようなものだと捉えていただければよいでしょう。



さて、上に述べた通り、古代の日本では律や令のほかにも格や式などが折々制定されていたのですが、平安時代の前期頃には、それらの数が非常に増えかなり煩雑なことになってしまっていました。



それぞれ嵯峨天皇・清和天皇のもとで編纂された『弘仁格式』『貞観格式』は、これらの法律を分かりやすくまとめることを目的として作られたものです。