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【年表付き!蝦夷征討完全まとめ】 蝦夷征討の過程は?そもそもなぜ行われた?【-後編-】

更新日:7月11日



画像は、青森ねぶた祭に出展された【東北の雄 阿弖流為】の山車



当記事は、



【年表付き!蝦夷征討完全まとめ】 蝦夷征討の過程は?そもそもなぜ行われた?【-前編-】



とセット記事です。



前編の内容を簡単に復習します。



「中華思想」を導入していた朝廷は、東北地方に住む野蛮な異民族とされた蝦夷を天皇の徳を以て教化させるべきであるという考えのもと、大化の改新の直後から蝦夷の征討事業に着手したのでした。



そしてまず、阿倍比羅夫の遠征により、7世紀の後半東北地方の日本海側を影響下に置くことに成功します。



そして8世紀になると、東北地方における軍事・行政の拠点となる多賀城を設置に見られるように、朝廷は本格的な東北地方経営へと乗り出したのでした。



ここまでが前編の内容です。



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【平安時代③ 古代東北史―蝦夷征討の過程―】

【平安時代① 桓武天皇による律令制の再建】


目次

ー前編ー

1.蝦夷征討が行われた理由

2.蝦夷征討過程の3段階とは?俘囚と柵戸の違いは?

3.①大化改新直後!日本海側征討期

4.②奈良時代前半!東北経営開拓期

ー後編ー

5.③平安時代前半!太平洋側征討期

6.その後の東北地方

7.蝦夷征討の過程 【年表】 完全まとめ






5.③平安時代前半!太平洋側征討期


さて、徐々に東北地方に進出して自らの生活を脅かしてくる朝廷に対して、蝦夷たちはそれまでも幾度か反乱を起こしていましたが、奈良時代の晩期頃からは本格的な反乱が発生するようになりました。



その代表的なものが、光仁天皇の時代である780年に発生した「伊治呰麻呂の乱」です。



朝廷に帰順していた俘囚の豪族である伊治呰麻呂は朝廷の東北経営に協力し、その功績を称えられて官位まで与えられていたのですが、突然この呰麻呂が按察使の紀広純を殺害し、さらに南下して多賀城を攻略するという謀叛を起こしたのです。



この反乱の結果、東北経営の拠点であった多賀城は焼失してしまいました。



東北経営がはじまって以来の大反乱に、朝廷は大きな衝撃を受け、以後蝦夷への支配が強化される契機となったといいます。






上に見た反乱もあり、光仁天皇に続いて即位した桓武天皇は、本格的な東北地方の支配の拡大・強化にへと乗り出していきました



また、‘‘新王朝‘‘としての意識を持つ桓武天皇には、武力を用いてでも蝦夷を征伐し、威厳を誇示しなければならないという思いもあります。



こうした背景もあり、桓武天皇は使命感のもと東北地方太平洋側へと兵を派遣し、朝廷VS蝦夷による、本格的な戦いの時期が到来したのでした。



蝦夷の最大の拠点であった胆沢(現在の岩手県水沢市)を攻略すべく、大軍を派遣した桓武天皇でしたが、その征討は思うように進みませんでした。



蝦夷たちの抵抗が思いのほか強かったからです。そして戦術において、蝦夷たちの方が一枚上手でした。



結局、桓武天皇は3次にわたって大軍を派遣することとなります。






1回目の遠征が行われたのは789年のことです。



征討大使として、約5万人の大軍を率いた紀古佐美が派遣されましたが、胆沢に本拠地を構えていた族長・阿弖流為(アテルイ)の率いる千数百人の軍に大敗したと言います。



圧倒的に劣勢だったはずの蝦夷軍でしたが、地の利を生かした神出鬼没の作戦で朝廷軍を翻弄し、結局朝廷軍は大損害を被って敗走したのでした。






2回目の遠征が行われたのはその5年後、794年です。



このとき、日本で最初の「征夷大将軍」として大伴弟麻呂が任命され、弟麻呂率いる10万人あまりの大軍が派遣されたと言います。



副使として坂上田村麻呂も派遣されたそうです。



田村麻呂の活躍もあり、この征討は一定の成果を上げたようですが、前回の2倍の兵力の数を以てしても、阿弖流為の抵抗を完全に崩すことはできませんでした。






さて、第2次征討の武功により、797年 坂上田村麻呂は征夷大将軍へと命じられることとなります。



そして801年、征夷大将軍坂上田村麻呂率いる約4万人の大軍が派遣される第3次征討が行われ、802年にはついに阿弖流為を降伏させたのでした。



阿弖流為は戦いの過程で田村麻呂の器量を認めており、反対に田村麻呂自身も阿弖流為の蝦夷族長としての器量を信頼していたといいます。



そのため田村麻呂は、阿弖流為に官位を与えて蝦夷支配の責任者に任じるよう朝廷に助命をかけあったといいますが、結局田村麻呂のこの嘆願は受け入れられず、阿弖流為は処刑されてしまいます。



そしてこの戦いの後、同年802年には、東北地方太平洋側の最前線として胆沢城が築かれています。



軍事上の最前線ですので、多賀城から鎮守府が移されたことも忘れてはいけません。



803年には、胆沢城よりもさらに北、現代で言う岩手県盛岡市の地に志波城が築かれています。



(しかし、この城柵は地理的に洪水被害を多く被ったため、嵯峨天皇の時代の813年、もう少し南の位置に新たに徳丹城が設けられ、機能が移されました。)



桓武天皇としてはさらに東北の北の方へと支配地域を広げたかったようで、引き続き蝦夷の征討計画が立てられましたが、民衆に多大な負担を強いていたこの蝦夷征討事業は、805年の「徳政論争」をうけて、平安京の造営とともに一時中断することとなります。



史料問題でも頻出のテーマ。‘‘軍事と造作‘‘ の中断です。