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【年表付き!蝦夷征討完全まとめ】 蝦夷征討の過程は?そもそもなぜ行われた?【-前編-】

更新日:2021年7月11日




さて、古代の日本史を学ぶ上で外せないテーマの一つに「蝦夷の征討」があります。



蝦夷とは、中央とは異なる生活や文化を持って東北地方を中心に集住した人々のことです。



そして彼らを異民族扱いしていた朝廷は、大化の改新直後から約200年にわたって蝦夷の征討事業を行い、東北地方支配の強化を行ってきました。



と、言葉でまとめれば簡単なような気もしますが、実は受験生にとって苦手となりがちで非常に差が付きやすいテーマです。



なぜなら、その征討の過程がかなり断続的なものであるからです。



〇〇天皇のときここまで征討が進み、その約半世紀後△△天皇のときにあそこまで征討が進み、、といったようになかなか一回では進まないのですね。



でもご安心ください。



蝦夷征討の過程は3段階あり、それぞれの段階の特徴をしっかり押さえれば非常に理解しやすいテーマへと変貌します!



今回は【蝦夷征討完全まとめ】と題しまして、前編と後編の2記事にわたり、蝦夷征討が行われた理由やその過程についてわかりやすくまとめて紹介したいと思います!



蝦夷の征討をまとめた授業ノート(PDF版)はコチラ!



目次

ー前編ー

1.蝦夷征討が行われた理由

2.蝦夷征討過程の3段階とは?俘囚と柵戸の違いは?

3.①大化改新直後!日本海側征討期

4.②奈良時代前半!東北経営開拓期

ー後編ー

5.③平安時代前半!太平洋側征討期

6.その後の東北地方

7.蝦夷征討の過程 【年表】 完全まとめ






 

1.蝦夷征討が行われた理由

 

蝦夷征討蝦夷征討と言いますが、そもそもこれがどういった思想のもと行われていたのでしょうか。



一つ目は、「政治的理由」です。



これについて、一言で述べるならば「日本が中華思想を導入していたから」ということになります。



中華思想を導入していた朝廷は、日本における異民族であった蝦夷を「夷狄」=すなわち徳化すべき野蛮な民族であると位置づけていました。



天子たる天皇の使命は当然、自らの「徳」を以て夷狄を教化し、彼らを文明に導いてあげることです。



だからこそ朝廷は、必死に抵抗を続ける蝦夷たちに対し、徹底した征討を続けたのでした。



(※詳しくは以下の記事をご覧ください。)


⇓⇓⇓ 中華思想についての詳細はこちら!

【日本も導入!】中華思想とは?周辺アジア諸国に与えた影響は?【番外編:天命思想と易姓革命】


次に、「経済的理由」です。



また、東北地方には豊かな土壌があり、その他にも金や鉄など大いに経済を潤すであろう鉱山資源が眠っていました。



朝廷はこの資源を狙っていたといいます。



すなわち、蝦夷を服属させることで東北地方の支配を強化し、これらの資源を確保を目指す――朝廷が蝦夷の征討を行ったのには、このような背景があったのでした。



 

2.蝦夷征討過程の3段階とは?俘囚と柵戸の違いは?

 

さて、ではここからは、蝦夷の征討がどのような過程で行われたのか、具体的に追っていきたいと思います。



蝦夷の征討は、おおまかに3段階へと分けられます。



まず、これらそれぞれの時期を個別に理解し、のちに一つの大きな流れとしてまとめていく。



これが、蝦夷の征討を学習していく上での大事なポイントです。



その3つの時期は以下の黒板の通りです。ご覧ください。





これを、さらに詳しくまとめると以下のようになります。



それぞれの時期の解説については、以降で詳しく紹介します!





その前に、蝦夷の征討を学ぶ上で頻出するワードである「俘囚」と「柵戸」との違いについて、まず解説します。



俘囚とは、朝廷に帰順した蝦夷のことです。



柵戸とは、東北経営のために関東地方などから東北地方に移住させられた農民のことを指しています。



この後朝廷は蝦夷の征討を進めていく過程で、東北地方へと支配地を広げていきますが、実際の東北地方の開拓や経営にあたったのは、この柵戸でした。



と、よく並列されることの多いこの単語ですが、このように意味を追っていくと、全く別個の概念であるということがお分かりいただけるかと思います。






 

3.①大化改新直後!日本海側征討期

 

さて、一つ目の段階は、大化改新直後の時期。具体的には、飛鳥時代の後半――すなわち7世紀後半にあたります。



大化改新により、中央集権国家の建設へと向けた動きが始まるわけですが、朝廷はその一環で、いまだ朝廷に服属しようとしない東北地方の支配へと乗り出しました。



ここが、約200年にもわたる、蝦夷征討のスタートです。



まず、647年―本当に大化改新直後のことです――渟足柵(ぬたりのき)が設置されました。



そして続いて翌648年、今度は磐舟柵(いわふねのき)が設置されます。



これらはどちらも古代の城柵であり、朝廷の支配が及んでいた地と蝦夷の地との境界に作られた砦のような役割をしていました。



砦と言っても、軍事的な役割のみならず、そこでは交易なども行われていたと言われています。



どちらも孝徳天皇によって、越後国に設置されました。現在の新潟県あたりに設置されたそうですが、いまだに遺跡は発掘されておらず、その詳しい場所は分かっていません。



そして658年、斉明天皇の時代です。これらの城柵を軍事拠点として、ついに蝦夷の征討が実行されました。



阿倍比羅夫による東北地方日本海側への遠征です。



『日本書紀』によると、阿倍比羅夫は180隻の水軍を率いて、飽田 (あぎた) と渟代 (ぬしろ)と呼ばれる2地域にいた蝦夷を朝廷に帰順させました。



その後、比羅夫は何度かにわたって、最終的には秋田や津軽地方まで遠征を行ったと言います。



比羅夫は北方の蝦夷たちを帰順させて関係を結び、こうして朝廷は東北地方の日本海側を影響下に置くことに成功したのでした。






なぜ朝廷は、東北地方の日本海側を最初に攻め入ったのでしょうか。



その理由はハッキリとはしていませんが、そもそも地理的に太平洋側よりも日本海側の方が京にずっと近く、



そして物資や人員の輸送において海上交通を使用することもできたため、交通の便を考えたときに、日本海側の方が進めやすかったからであるからと考えられています。




 

4.②奈良時代前半!東北経営開拓期

 

さて、8世紀に入ると、朝廷の東北進出は加速していきます。



奈良時代前半にあたる時期です。律令体制の確立に伴い、朝廷は新たに支配下に入った地域の本格的な経営を進めたのでした。



まず、日本海側についてですが、元明天皇の時代、708年には出羽柵が、そして712年には出羽国が設置されました。



そして、のち聖武天皇の時代の733年には、そこからさらに前進して、秋田城が築かれています。



太平洋側に関しては、同じく聖武天皇の時代の724年、現在の宮城県に当たる地域に、東北地方における行政・軍事拠点として、多賀城が設置されました



約900M四方という広大な城内の中には、儀式や重要政務を司る政庁が置かれるなどし、城柵の一種でありながらも、東北地方各地に置かれた城柵の中でも中心的な役割を果たしたといいます。



多賀城を学ぶ上でもう一つ大事なポイントとして、鎮守府と陸奥国府がここに置かれたことを忘れてはいけません。



陸奥国府はごくごく単純。陸奥国の行政を司った陸奥国の国府です。



聞きなれない単語かもしれませんが、鎮守府もとても大事です。



蝦夷征討のために置かれた軍事機関であり、陸奥国府にいる国司とともに、実際の東北地方の経営にあたりました。



また、難関大受験者向けの発展的な知識を紹介しますと、陸奥・出羽国の地方行政を監督する按察使(あぜち)が設置されたのも、ここ多賀城でした



按察使とは、奈良時代に置かれた令外官の一つ。国司の行政や諸国の民情などを巡回視察した地方行政の取り締まり監督官としての役割を担った。)



このように、多賀城は陸奥国府・鎮守府・按察使など、蝦夷の征討や東北地方の行政にあたる上で重要な機関が多数置かれ、朝廷による東北地方経営の拠点となったのであります。





後編へと続く!

【年表付き!蝦夷征討完全まとめ】 蝦夷征討の過程は?そもそもなぜ行われた?【-後編-】



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