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【寛平の治】宇多天皇と菅原道真の政治。親政を展開できたのはなぜ?遣唐使が廃止された背景・理由は?

更新日:7月12日


(画像は宇多天皇)




さて、「阿衡の紛議」による藤原基経の示威行動によほど懲りたのか、891年に基経が没してからは、宇多天皇摂政関白を置くことなく自ら政治を行うようになりました。



平安時代3つ目の時期区分、【三天皇による治世の時期―宇多・醍醐・村上天皇による天皇親政のが到来です。



今回の記事で紹介するのは、宇多天皇によって行われた「寛平の治」についてです。



基経の死後、宇多天皇は摂政・関白を置くことなく、基経の子である時平と阿衡の紛議の際に基経をいさめた菅原道真らを登用し、自ら意欲的に親政を展開したといいます。



今回は、宇多天皇によって行われた「寛平の治」の全貌、さらにはな「遣唐使の廃止」について、その背景や理由とともに紹介していきたいと思います!



⇓⇓⇓当記事に該当するノートはこちら!

授業ノート(PDF版)【平安時代藤原摂関期の中断―三天皇による親政―】


⇓⇓⇓「寛平の治」に至るまで、基経の政治についてはコチラの記事から!

【基経の政治】阿衡の紛議はなぜ起こった?その背景・過程・歴史的意義は?【陽成・光孝・宇多天皇】



目次―

1.なぜ宇多天皇は親政を展開できた?

2.寛平の治で行われた政策まとめ

3.遣唐使の廃止について。なぜ道真は廃止の建議を行った?




1.なぜ宇多天皇は親政を展開できた?



なぜ基経の死後の宇多天皇は、摂政・関白を置くことなく親政を行うことができたのでしょう。



摂関政治のしくみについてしっかりと理解できていれば、この理由もすぐ納得できます。



光孝天皇、そしてその子供である宇多天皇は、もともと続いていた文徳清和陽成の系統の傍系であり、その即位自体が想定外なものであったため、藤原氏北家による外戚政策が追い付いていませんでした。



それゆえに、宇多天皇は藤原氏北家の外祖父を持たず、基経の死後はそもそも摂政・関白を設置させられる理由がなかったのです。 (光孝天皇と宇多天皇の時代に基経が関白に任命されたのは、あくまで光孝天皇の即位がイレギュラーであったことに起因するもので、外戚政策の賜物ではない。)



基経が没した時、基経の息子である時平はまだ21歳の若造でした。



そんな若造は宇多天皇にとってまだまだ恐るるに足らない存在であり、しかも自分の外祖父でもありません。



とはいえ、さすがに権力者である北家をないがしろにまではすることができず、時平を参議として登用してはいますが、その他にも阿衡の紛議の際に基経を諫めた菅原道真や、讃岐守として業績を上げていた藤原保則なども抜擢され、ともに登用されています。



宇多天皇は藤原氏北家という門閥に拘らない人材登用を始めたのです。



こうして、優秀な人材に囲まれた宇多天皇が自ら意欲的に政治改革を行っていく ‘‘寛平の治‘‘ が始まったのでした。(なお、宇多天皇が菅原道真を登用したのは、藤原氏北家の勢力を抑えるという意図があったとも言われています。)




2.寛平の治で行われた政策は?



さて、ここからは「寛平の治」で行われた具体的な政策について解説していきたいと思います。



寛平の治で行われた政策は、受験レベルでは以下のものを押さえておけばよいでしょう。

黒板をご覧ください。








滝口の武士とは、蔵人所の下で宮中の警衛にあたった警護部隊のことであり、治安が悪化しつつあったことを背景として設置された武士組織の一つでした。



滝口の武士には五位、六位の位を持つ武勇ある侍の中から、とくに弓矢に秀でた者が、試験を経たのち採用されたと言われています。



「滝口の~」というその名称の由来についてもお話ししましょう。



宮中内裏を形成する中心的な建物である「清涼殿」の周りには、御溝水と呼ばれる小さな水路のようなものがありました。



そして清涼殿の北東には、その水路のスタート地点があり、小さな滝から水が落ちてきて水路に流れるようになっていたようです。



滝のように水の落ちる様子から、そこら一帯は「滝口」と呼ばれていたそうですが、「滝口の武士」はこの付近を拠点に活動したことからこのような名称が付いたそうです。







日本三大実録』は、いわゆる ‘‘六国史‘‘ の最後にあたる書物です。



858~887年間、清和・陽成・光孝天皇の3代の天皇にわたる時代を記述した歴史書(国史)であり、宇多天皇によって命じられた菅原道真や藤原時平が中心となって編纂が行われたと言われています。



具体的な編纂開始年には諸説があり、さらに宇多天皇の譲位により編纂作業は一時中断されましたが、醍醐天皇が改めて編纂の勅命を発しついに901(延喜元)年に完成を迎えました。



また、『類聚国史』とは、これら六国史の記載を内容別に再度分類してまとめなおした歴史書であり、宇多天皇の命を受けた菅原道真によって892年に完成したと言われてます。







朝廷権威を復活させる手段の一つとして、宇多天皇は文化政策の振興も実施しました。



具体的には、平安時代初期に漢詩文が隆盛していたことにより停滞していた、日本独自の和歌を再興しようとしたのです。



菅原道真が中心となって勅撰和歌集の編纂が企画されたほか、宮中において大規模な歌合が数度開かれたといいます。



その結果、貴族