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【官物・臨時雑役とは?】租税賦課方式の一大転換と国司の変容&‘‘売官売位‘‘の風潮【論述対策】

更新日:2019年11月29日





さて、これまでずっと見てきたように、奈良時代の律令政府は農民たちに対してあまりに重すぎる負担をかけてしまったがために、



農民たちの間で偽籍、浮浪・逃亡などの納税忌避手段が一般化し、朝廷は戸籍・計帳に基づいた人民支配が困難になってしまいました



そしてそれ以降、公地公民制を基本理念とする律令制は徐々に弛緩していきます。



もちろん朝廷もただ指をくわえてその崩壊を見つめていたわけではなく、例えば桓武天皇や醍醐天皇のように、



深刻な状況を打開すべく、果敢に改革を行った人物もいました。



しかしそれでも結局、朝廷にも律令制の瓦解を食い止めることはできず、平安時代の半ば頃、



10世紀の前半~半ば頃において、朝廷は自ら、律令制を放棄する道を選ぶのです。



具体的には、徐々に深刻化していた朝廷の財政難を食い止めるべく、公地公民制を基本理念とする律令制に基づいた徴税方式を捨て、



全く新たな徴税方式を採用し、こうして税制の一大転換が行われたのでした。



⇓⇓⇓詳しい内容の記事はコチラから!

【論述対策】平安時代における律令制の弛緩&崩壊に対する朝廷の対応【桓武天皇の改革・直営田の設置・醍醐天皇の改革】







さて、今回のテーマは平安時代のちょうど半ばごろに差し掛かろうかという時期に行われた【徴税方式の一大転換】です!



奈良時代より続いてきた、日本古代の土地制度・税制度の集大成となるテーマですね。



論述でも頻出のものですので、ここでもう一度しっかりとまとめなおしましょう!



⇓⇓⇓当該する授業ノートはコチラから!

授業ノート(PDF版)【平安時代⑥ 律令体制の崩壊と徴税方式の転換】




目次―

1.人頭課税⇒土地課税という租税賦課方式の一大転換

2.「名(名田)」「田堵」「負名」「官物」「臨時雑役」とは?

3.国司の変容

4.国司の利権化と‘‘売官売位‘‘の風潮

5.国司の形態と農民との対立







 

1.人頭課税⇒土地課税という租税賦課方式の一大転換

 


さて、それではどうして、朝廷は租税賦課の方式を転換させる必要があったのでしょうか。



その理由はごく単純です。



朝廷が財政難に陥ることとなってしまった背景を見ていけば、その答えは簡単に見えてきます。



偽籍、浮浪・逃亡が増加したために、朝廷は戸籍・計帳に基づいた人民把握ができなくなってしまっていたのでしたね。



また、これは同時に、課口(=課丁ともいう。調や庸を納める人々のこと。)の把握が困難となってしまったことを意味しています。



そしてそれ故に、中央財源となる調の収入が少なくなってしまったため、朝廷は深刻な財政難に陥ってしまっていたのです。







調や庸というのはもちろん、戸籍・計帳に基づいた人頭税の一つです。



言ってみれば「個人」を単位とする徴税方式であったわけですね(こういうのを個別人身単位に基づいた徴税方式と呼ぶこともあります)。



これまで繰り返し述べてきたように、偽籍、浮浪・逃亡が一般化してしまったことにより、もはや戸籍・計帳は意味のないものとなってしまっていたわけです。



このことから、「個人」を単位とする人頭税という租税賦課方式では、もはや朝廷は収入を確保できない。



そのように考えたために、朝廷は租税賦課方式を一大転換させる決心をしたのでした。



そして930年代――朱雀天皇藤原忠平摂関期の頃です。



人頭税という租税賦課方式に代わり、新たに【土地賦課方式】と呼ばれる方式が採用されました。



それまで「個人」を単位にしていた租税賦課が、土地の面積に応じたものへと転換されたのです。



土地に対して課税するという原則のもとでは、ある意味では田地の存在さえ把握していれば、



そこを実質的に経営している農民に対して、その面積に応じて徴税することが十分可能である――



租税賦課方式転換の裏にはこのような考え方があったのですね。





 

2.「名(名田)」「田堵」「負名」「官物」「臨時雑役」とは?

 

さて、それでは具体的にどのように租税賦課方式は転換されたのでしょうか。



歴史的語句の解説とともに説明していきましょう。



まず、土地に課税をするにあたって、「名(名田)」と「田堵(たと)」と呼ばれる概念が登場します。



「名(名田)」とは、租税賦課方式の転換の際に新たに登場した徴税単位のことです。



「田堵」とは、実際にこれら名(名田)を耕作した有力農民たちのことを言います。



朝廷は、かつて口分田として班田されていた公田を新たに「名(名田)」という租税単位へと編成しなおし、



「田堵」と呼ばれる有力農民たちに「名(名田)」の耕作を請け負わせ、その耕作面積に応じて徴税したのでした。



名(名田)の耕作を請け負ったことから、やがて、これら名田を実際に耕作した田堵のことを「負名」と呼ぶようになり、



さらにこれら一連の体制のことを、「負名体制」と呼ぶようになったと言われています。



人頭税⇒土地税へと徴税方式が転換されたのですから、これ以後、租・調・庸・雑徭などのかつての税制は放棄されてしまいます。



(同様に、この後戸籍・計帳が造られることはありませんでした。)



その代わりに生まれたのが、「土地」を徴税単位とする「官物」や「臨時雑役」と呼ばれる租税です。



「官物」とは、簡単に言ってみれば、かつての租・調・庸が合体したような税であり、



「臨時雑役」とは、かつての雑徭などをはじめとする、公の課役の集合体のような税と考えていただければよいでしょう。







まとめます!



つまり、朝廷はかつて口分田として班田されていた公田を新たに「名(名田)」という租税単位へと編成しなおし、



田堵」と呼ばれる有力農民たちにこれら「名(名田)」の耕作を請け負わせ、その耕作面積に応じて名単位で「官物」や「臨時雑役」を徴税したのです。



そして、これら一連の体制のことを、「負名体制」と呼んでいるのですね。





 

3.国司の変容

 


さて、これまで繰り返し述べてきたように、朝廷は公地公民制に基づいた律令制を放棄し、



租・調・庸・雑徭など「個人」を単位とする人頭税から、官物・臨時雑役という「土地」を単位とする土地税へと、



その租税賦課方式を一大転換したのでした。



それにともない、国司の在り方にも変化が起こるようになります。



朝廷は国司に対しこれまでよりも大きな権限を与え、赴任した一国における徴税と行政を全面的に任せるようになったのでした。



つまり、中央から派遣された国司は、管轄する国の名(名田)に対して徴税し、それを集めて朝廷に納入する代わりに、



朝廷からその一国の支配を任せられるようになったのです。



言ってみれば、



朝廷「一国の名(名田)から集めた税を中央に納めてくれさえすれば、後は好きにしていいよ!」



といったような状況ができあがってしまったわけですね。



当然のことながら、国司に一任された地方行政はだんだんと疎かになっていき、地方政治はどんどん乱れていってしまうこととなってしまいます。







また、郡司となっていたもと地方豪族は、国司のもとで「在庁官人」と呼ばれる地方官僚となり、国衙で実務をとるようになりました



これにより、郡家(郡衙)の機能は低下・消滅し、国衙に権力が集中するようになっていったといいます。



このことからも、国司の権力が以前よりも強化されていたことが窺えるでしょう。







 

4.国司の利権化と ‘‘売官売位‘‘ の風潮

 


朝廷が国司に対し、赴任した一国における徴税と行政を全面的に任せるようになったというのはこれまで述べてきたとおりですが、



同様に国司は、朝廷から与えられた莫大な権限のもとで、農民に対しての徴税率も独自に決定できたといいます。



さらに、農民たちから徴税をしたのち、朝廷に対して一定量の税を納めた後の莫大な残りは、国司自らの収入とすることも可能とされました



これにより、国司はものすごく儲かる官職となったのです。



在任中に巨額の富を築く国司が増えるようになると、国司の地位は次第に利権化されるようになっていきます



当然ですよね。



能力なんてなくても、就いてさえしまえば莫大な収入を得られる官職となったのですから、



中央政界での出世を望めない中下級貴族たちは、争って国司になることを望んだのです。



こうして、いわゆる ‘‘売官売位‘‘ と呼ばれる風潮が広まることとなります。



利権化した「国司」という地位を得るべく、「カネ」でやり取りするという政治腐敗が一般化したのでした。



‘‘売官売位‘‘ の具体例としてよく試験で出題されるのが、「成功(じょうごう)」と「重任(ちょうにん)」です。



「成功(じょうごう)」とは、寺社の造営などに際し私財を朝廷に献じて、官職に任命されることをいいます。



「重任」は文字通りです。「成功」によって、任期終了後も引き続いて再び国司に任用されることです。





 

5.国司の形態と農民との対立

 


さて、最後は【国司の形態】と【国司と農民との対立】について述べていきます!



一口に「国司」といっても、このころには様々な形態がありました。



入試・試験で問われやすい、代表的なものを紹介します。



よく耳にされる受領」とは、実際に現地に赴任して実務を執る国司の最上官のことをいいます。



(律令体制下でも、国司には守・介・掾・主典(かみ・すけ・じょう・さかん)という四等官制が存在してましたよね!



そもそもある一国における国司は一人ではないのです。通例では、もともと「守(かみ)」と呼ばれる立場が、受領になることが多かったようです。)



それに対して、遙任」とは、現地に赴任せず京に留まり、官職に伴う得分のみを得る国司のことをいいます。



彼ら遙任は、任国には「目代」を派遣し、彼らに国司としての仕事をさせました。



なお、11世紀後半頃から受領も次第に任国に常駐しなくなり、その代わりに任国には目代を派遣するようになったといいます。







さて、‘‘売官売位‘‘ の風潮のもと、利権化された国司職ですが、先ほど述べたとおり「カネ」のことしか考えていない国司たちの登場は、



同時に地方行政の腐敗を意味しています。



強欲な国司の中には、もっと強大な富を築きたいと望み、農民たちに対して法外な税率をかけたり、圧政を敷く者もありました。



農民たちはその苛政に対して、ただ黙って耐えていたのでしょうか。



そんなことはありません。



あまりに横暴な国司に対して、一致団結した農民たちが抵抗することもありました。



その好例となるのが、『尾張国郡司百姓等解文』と呼ばれる文書です。



これは988年に尾張国の百姓らが、当時の尾張国国司(受領)であった藤原元命の横暴を、



31箇条にもわたる長文で太政官に訴え出た訴状です。



藤原元命は我々農民たちに対してこんなにヒドイことをしています!!



といったことを、国司よりも上の立場の者に対して訴えたのですね。



なお、この訴状を受け、同国司は翌年解任されることとなりました



このように、強欲な国司に抵抗した農民側が打ち勝つこともあったのです。



(なお、少々補足的な内容ですが、さらにそののち、藤原元命はまた別の国の国司に任命されています。



このことからも、朝廷はちゃんと納税してくれていればあとは好きにしていいよと公言しているわけですから、



国司の横暴に関してもある程度黙認していたのではないかということが窺えます。 )





 
いかがでしたか?


さて、奈良時代より続いてきた古代日本の土地制度・税制度は、これにて集大成を迎えました。



飛鳥時代より続いてきた律令国家体制は、「個人」を戸籍・計帳によって把握することで維持されてきた徴税方式を原則としてきましたが、



やがて奈良時代後半から平安時代前半にかけて、この律令制的な人民支配・徴税方式には限界が生じてくるようになり、



そして10世紀半ばに、個別人身単位から土地単位へと租税賦課の方針転換が進められたのです。



こうして新たに構築された中世に至るまでの過渡期の統治体制(~平安時代末期)は、それまでの律令国家に対し、‘‘王朝国家体制‘‘ と呼ばれることもあります



頭の片隅にでも置いておいていただけると幸いです。




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