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【安和の変】藤原氏最後の他氏排斥事件!なぜ源高明は排斥されたのか?源満仲はなぜ藤原氏側についたのか?【徹底解説】

△画像は、左が源満仲。右が藤原実頼



平安時代も半ば頃になると、律令制の崩壊はさらに加速していき、もはやかつてのように天皇が日本のトップに君臨し、



その影響力が全国各地に及ぶといったような時代は終わりを迎えました。



ここから、日本という国の在り方が、大きく転換されようとする時代が訪れます。



平安時代4つ目の時期区分、【藤原摂関家全盛の時期―藤原道長・頼通の活躍する太平の時期―】の到来です。



「平安時代」と聞いたときに我々が真っ先に思い浮かべるような、色とりどりの装束に身をまとった貴族たちが太平の世を謳歌する穏やかな期間。



藤原摂関家が大いに活躍した ‘‘The 平安時代‘‘ とも呼ぶべき時期でございますね。



今回は、藤原氏こそがNO.1なのだという時代を創り上げる上で最後の仕上げとなった歴史的事件、



藤原氏による最後の他氏排斥運動として有名な「安和の変について、その過程や歴史的意義について解説していきたいと思います!




⇓⇓⇓当講義の該当ノートはコチラ!

授業ノート(PDF版)【平安時代⑨ 摂関政治の全盛―藤原道長と頼通―】



目次―

1.「安和の変」とは?概要を簡単に解説!

2.「安和の変」が起こった背景は?なぜ源高明は排斥された?

3.「安和の変」の経緯を解説!

4.論述対策!「安和の変」の歴史的意義は?







 

1.「安和の変」とは?概要を簡単に解説!

 


教科書的に述べてしまえば、「安和の変」の概要は非常に単純なものです。



「安和の変」とは969年冷泉天皇ー関白藤原実頼のときに発生した、藤原氏による他氏排斥事件のことであり、



左大臣であった源高明(みなもとのたかあきら)という人物が、



藤原北家と通じていたとされる源満仲(みなもとのみつなか)の讒言によって大宰権帥に左遷されたというものでした。



同事件は藤原氏による最後の他氏排斥運動として数えられますが、それでは藤原氏はなぜ、この源高明を排斥したかったのでしょうか。



さらに言ってしまえば、左遷させられた源高明と左遷させた側の源満仲は、どちらも「源氏」であるのに、



どうして満仲は藤原氏の側と手を組んだのでしょうか。



その詳しい理由と事件の背景を追っていきます。





 

2.「安和の変」が起こった背景は?なぜ源高明は排斥された?

 


「安和の変」が発生してしまった理由を探るためには、まず源高明の生い立ちについて理解をしていく必要があります。



彼のお父さんは、あの醍醐天皇です。



醍醐天皇の第10皇子として産まれた彼は、7歳の時に臣籍降下をし、醍醐天皇から「源氏」の姓を賜ります。



すなわち源高明は、いわゆる ‘‘醍醐源氏‘‘ と呼ばれる醍醐天皇を祖とする源氏の系統だったのです。



もともと天皇家の出身であった彼は、朝議に明るかっただけでなく、学問にも非常に優れた人物でした。



このことから彼は、参議、中納言、大納言、右大臣・・・と順調にキャリアを積んでいき、次第に朝廷で重く用いられるようになっていったといいます。



968年、冷泉天皇が即位したタイミングで、高明は左大臣に任命されました。



その実力と周りからの信頼・後援を以て、高明はついに太政官の実質的な最上位まで上り詰めたのです。







しかし、このころから、高明と藤原氏との関係がきな臭くなっていきます。



理由は冷泉天皇の後継問題でした。



冷泉天皇にはなかなか皇子が生まれず、さらに病弱であったために、早急に次期天皇=皇太子を定める必要がありました。



ここで次期天皇=皇太弟の候補とされたのが、冷泉天皇の同母弟にあたる為平親王守平親王という人物なのですが(父は全員村上天皇)、



この為平親王は、源高明の娘と村上天皇との間に生まれた子供だっといいます。



そう、つまり源高明は為平親王の外祖父にあたっているのです。



すなわち、もし為平親王が天皇として即位した場合、図らずとも源高明は外戚として摂関政治を行える立場にあったのでした。



外戚政策によって台頭し、政治の実権を握ってきた藤原氏にとって、これが驚異であったことは想像に難くありません。



⇓⇓⇓ここの説明がいまいちピンと来ない方はぜひ以下の記事をご覧ください!

【理由・仕組みを解説!】なぜ藤原氏は外戚政策を行うことで摂政・関白となれたのか?【ポイントは‘‘妻問婚‘‘】【サザエさんで考えろ!?】







繰り返しますが、源高明は臣籍降下していてはいても、あの醍醐天皇の子であるという高貴な出自を持っています。



そしてその実力と信頼を以て朝廷での影響力を強め、高級官僚としてイケイケのキャリアを積んでいながら、



さらに、為平親王が皇太弟となったときには後に天皇の外祖父として摂関政治を行う可能性さえ秘めていたのです。



源高明の台頭が、藤原氏にとって非常に驚異的なものであったことは言うまでもありませんよね。



将来の潜在的な脅威は早いうちから排除しておきたかったのでしょう。



これが、「安和の変」が起こるキッカケとなったのでした。



※ここらへんの背景は、「阿衡の紛議」において藤原基経が橘良相(よしみ)の排斥に拘った理由と非常に似ています



⇓⇓⇓「阿衡の紛議」の教科書ではあまり述べられない真相について、詳しくはコチラ!

【基経の政治】阿衡の紛議はなぜ起こった?その背景・過程・歴史的意義は?【陽成・光孝・宇多天皇】






 

3.「安和の変」の経緯を解説!

 


当初人々の間では、聡明であった為平親王が次期天皇=皇太弟になることが予想されていましたが、



しかしながら、結局のところ皇太弟に就いたのは守平親王でした。



これにはもちろん、源高明がさらなる権力を持つことを恐れた藤原氏によるパワーが働いています。



この一連の動きにより、高明自身も大いに失望したといいます。



さらに、タイミングの悪いことに、かつて自分を大きく後援してくれていた人物を、高明はこの時既に亡くしており、



後ろ盾と将来のさらなる展望を失った高明は徐々に朝廷内で孤立していきました。







ここまでこれば、もはや藤原氏が彼を排斥するのは容易いことです。



元天皇家出身の高級官僚という潜在的な脅威であった源高明に対して、藤原氏は徹底的に彼の権力を剥奪しに行きました。



969年、皇太弟に守平親王が就任したことによる失望から、源高明がその廃立を図っているという密告が朝廷になされます



この讒言(ざんげん)は藤原氏と通じていたとされる源満仲によるものでした。



こうして、朝廷ないしは天皇家に対する謀反を企てたとして、源高明は大宰権帥へと左遷されてしまったのです。



藤原時平の讒言によって大宰府に左遷された菅原道真のときと全く同じです。



事実上の流罪となった高明は、後に罪を許されこそしましたが、その輝かしいキャリアも人望も全てを失い、政界に戻ることはありませんでした。



⇓⇓⇓菅原道真の左遷「昌泰の変」についての詳しい記事はコチラから!

【菅原道真の物語-前編-】昌泰の変はなぜ発生した?ポイントは宇多&道真vs醍醐&時平の対立構造!大宰府での道真の生活は?







同じ「源氏」であるはずの源満仲は、なぜ藤原氏の側にまわり、源高明追放の手立てを加えたのでしょうか。



満仲は、「承平天慶の乱」のうち「藤原純友の乱」にて功を上げた源経基を父に持つ ‘‘清和源氏‘‘ の出身でした。



すなわち、いくら同じ源の姓を持っていても、高明と満仲は全く別種の系統の出自だったのです。



(藤原氏だって、同じ苗字であっても様々な流れがありますよね。それと同じです。)



実はこの一連の変では、同じく「承平・天慶の乱」の際に活躍していた藤原秀郷の子であった藤原千春という人物も連座されたことから、



満仲はその密告によって、武家としての清和源氏の地位を確立することに成功します。



さらに安和の変によって藤原氏の信任を得た満仲は、その功を以て正五位下の位を与えられたほか、



この後さらに摂関家と接近していき、経基より続く清和源氏の台頭の基礎を創り上げていったのでした。





 

4.論述対策!「安和の変」の歴史的意義は?

 


さて、最後にこの「安和の変」の歴史的意義についてまとめましょう。



繰り返しますが、安和の変は藤原氏北家による最後の他氏排斥運動であると言われています。



言い換えれば、もと天皇家出身という高級官僚であった源高明が排斥されたことで、もはや藤原氏にとって脅威となる、



藤原氏が排斥すべきライバルはいなくなったのです。



このことから、この変以後、藤原氏内部における激しい権力争いが勃発することととなります。



藤原氏北家のトップ争い、すなわち ‘‘氏の長者‘‘ 争いが繰り広げられるのでした。



その後、安和の変のすぐ後、969年に皇太弟守平親王が円融天皇として即位すると、



冷泉天皇の関白であった藤原実頼がそのまま円融天皇の摂政に就任し、以後摂関のほぼ常置体制が構築されたことも、ポイントとして挙げられるでしょう。



この後、道長や頼通が活躍するような藤原摂関政治の全盛期が訪れることになりますが、その栄華の礎はここから築かれていたのです。





 
いかがでしたか?


今回は、藤原氏による最後の他氏排斥運動である「安和の変」について、



それが起こる原因となった背景や、詳しい経緯を解説しました。



源高明を排斥したことで、もはや藤原氏を脅かすようなライバルがいなくなったことから、



以後、朝廷では藤原氏内部の勢力争い、いわゆる ‘‘氏の長者‘‘ 争いが展開されていくこととなります。



藤原摂関家による全盛期が到来するのです。





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