
今回の記事のテーマは、村上天皇の「天暦の治」です!
9世紀後半から10世紀半ばにかけての藤原摂関政治の一時的な中断期には、
これまで述べてきたような宇多天皇の「寛平の治」や醍醐天皇の「延喜の治」といったように、
天皇による親政が数世代にわたって行われてきました。
今回は、藤原摂関政治の中断期の最後の時代である、村上天皇の「天暦の治」について解説していきます!
正直村上天皇の治世で行われた出来事の中で、入試で問われるようなものはほとんどないです。
村上天皇といったらコレが問われる!といったように、問題の出され方も決まっているので、
そういった点をきちんと押さえていただけたらなと思います!
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授業ノート(PDF版)【平安時代⑤ 藤原摂関期の中断ー三天皇による親政-】
目次―
1.「天暦の治」の入試で問われるポイント『乾元大宝』
2.皇朝十二銭(本朝十二銭)はなぜ次々と発行されたのか?
3.文化人であった村上天皇
1.「天暦の治」の入試で問われるポイント!
村上天皇が牽引した「天暦の治」。
宇多天皇の「寛平の治」や醍醐天皇の「延喜の治」では覚えるべきことが多々ありましたが、
「天暦の治」で絶対に押さえるべきポイントはただ一つ。
村上天皇の治世における958年、‘‘皇朝十二銭(本朝十二銭)‘‘ の最後となる『乾元大宝』が鋳造された、
ただこれだけです。
そもそも ‘‘皇朝十二銭(本朝十二銭)‘‘ とは何だったか、覚えていらっしゃいますでしょうか。
皇朝十二銭(本朝十二銭)とは、古代の日本で発行された12種類の貨幣の総称のことです。
708年、元明天皇のときに鋳造された『和同開珎』が、この十二銭の一番最初と言われています。
名前も発行された年号も全く覚える必要はありませんが、『和同開珎』ののち10種類の貨幣が順番に発行され、
958年村上天皇のときに、最後の一つの皇朝十二銭(本朝十二銭)となる『乾元大宝』が鋳造されたのでした。
参考程度に、十二銭の名前と発行された年を載せておきます(最初と最後以外覚える必要は全くありません。)
・「和同開珎」 708年(和銅元年)
・「神功開宝」 765年(天平神護元年)
・「隆平永宝」 796年(延暦15年)
・「富寿神宝」 818年(弘仁9年)
・「承和昌宝」 835年(承和2年)
・「長年大宝」 848年(嘉祥元年)
・「饒益神宝」 859年(貞観元年)
・「貞観永宝」 870年(貞観12年)
・「寛平大宝」 890年(寛平2年)
・「延喜通宝」 907年(延喜7年)
・「乾元大宝」 958年(天徳2年)
2.皇朝十二銭(本朝十二銭)はなぜ次々と発行されたのか?
なぜ皇朝十二銭(本朝十二銭)はこんなにも次々と発行されたのでしょう。
朝廷によってこれら貨幣が発行された理由として、唐に倣った貨幣制度を日本でも整えたかったという意図はもちろんありましたが、
それ以上に、朝廷における財政的利益を得る狙いが大きかったのではないかと言われています。
というのも、朝廷は貨幣を発行するごとに、新貨幣を旧貨幣の10倍の価値を持ったものとして流通させようとしていたからです。
新貨幣に旧貨幣の10倍もの高い価値を付け、朝廷自らそれを支払い手段として用いることによって、経済的な利益を得ようとしていたものだと思われます。
そのために、幾度となく貨幣の発行・価値の更新が行われたのです。
しかし、その法定価値の妥当性には全く根拠はなく、むしろ改鋳の回数を重ねるごとに貨幣の品質は低下していっていました。
そのため、朝廷によって一方的に定められた新貨幣の法定価値が実質的に維持されるのは非常に困難なことであり、
結果的に、繰り返された貨幣鋳造は実質的な貨幣価値の下落=インフレーションと私鋳銭の横行を招いてしまいました。
このことから、これら十二銭は流通と交易の場面から忌避されるようになり、日本国内での流通範囲は機内やその周辺地域に限られたと言われています。
それぞれの貨幣が発行された西暦を見てみると、例えば最も短い『万宝通宝』はたった5年間で鋳造が終わっています。
これは極端な例ですが、そうでなくても十数年ほどで貨幣価値がどんどん更新されていってしまっていることがお分かりいただけるかと思います。
実際に貨幣を使う民衆にとってはたまったもんじゃないでしょう。
だって、せっかく富を蓄えたとしても、新貨幣が発行された日にはその富の価値が10分の1になってしまうのですから。
しかもそれでいて、新貨幣は鋳造されるたびに形も小さく、品質もどんどん低下していっていたのです。
民衆の貨幣に対する信頼が低下していくのも当たり前ですよね。
こう書けば、これだけ朝廷が頑張って貨幣を鋳造してもなかなか流通が促進されないといった理由も、なんとなくイメージいただけるかと思います。
当然ですが、現代における「経済学」という概念は平安時代において全くありません。
そのため、インフレーションという概念や貨幣価値をむやみやたらに更新することの意味というのも、人々の間では全く理解されておらず、
朝廷貴族たちには、なぜこれだけ頑張っているのに貨幣流通が促進されないのか全く分からなかったといいます。
彼らにできたことはただ一つ。
貨幣流通促進を祈って神頼みし、神仏の加護を期待する、ただこれだけでした。
(例えば、『日本紀略』によると958年4月8日、朝廷は公式で伊勢神宮など11社に新貨幣である乾元大宝流通の祈願を行っています。)
結局、以上みたように、朝廷がどんなに頑張っても貨幣の流通を促進することはできませんでした。
民衆の貨幣に対する信用は失われ、今後再び、米や絹などに頼った物品貨幣経済へと逆戻りしてしまう時代が訪れます。
そうなってしまうと、もはや新たな貨幣鋳造の意味はなくなり、さらに律令制の崩壊によって国家体制が変質したことも伴って、
963年には『乾元大宝』の鋳造も中止され、以後朝廷から公式な通貨が発行されることはありませんでした。
3.文化人であった村上天皇
さて、今回の記事のメインテーマはもう終わりです。
ここからは、難関大受験生向けに、ちょっと発展的ですが『天暦の治』に関する知識の補足をしていきます。
村上天皇は、非常に優れた文化人であったと伝えられています。
自らも琴や琵琶が上手であったとされており、あらゆる学芸に造詣が深かったのです。
文学を好んだ村上天皇は951年、「和歌所」を設置しました。
和歌所とは勅撰和歌集の変遷などを行うために、宮中に臨時に設置される役所のことで、村上天皇によって設けられたのが正式な始まりとされています。
その後、ここ和歌所にて村上天皇の命に始まる『後撰和歌集』が編纂され、955~958年の間に完成を迎えました。
その他にも、村上天皇の時代には、宮中で和歌の競技会である「歌合」が頻繁に開催されるなどしたため、
この時代に多くの文人が輩出されたとも言われています。
村上天皇の時代には和歌が大いに栄えたのであり、村上天皇は華やかな平安宮廷文化と文学史を支える功労者となったのでした。
いかがでしたか?
今回は村上天皇によって推進された治世「天暦の治」について解説しました。
なお、醍醐と村上の両天皇によるこの親政の時代は、後世において理想視され、「延喜・天 暦の治」と並べて称されます。
日本のトップたるべき天皇が、自ら政治を主導して、平和を維持したまま善政を行ったとされているからです。
藤原摂関家による政治、上皇による政治、武士による政治・・・といった時代が今後続いていくことから、
このあとしばらくは後三条天皇の親政を除いて、飛鳥時代・奈良時代のように、天皇が自ら政治を牽引していくような時代は訪れません。
それも踏まえながら、村上天皇「天暦の治」を復習していただければ幸いです。
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