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【基経の政治】阿衡の紛議はなぜ起こった?その背景・過程・歴史的意義は?【陽成・光孝・宇多天皇】

更新日:2021年7月12日



(画像は左から、陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇・藤原基経)




さて、応天門の変の混乱の中で清和天皇の摂政となることに成功した藤原良房は、同天皇のもと法制の整備にも力を入れて『貞観格式』を完成させるなどしています。



『貞観格式』は、嵯峨天皇の時代の『弘仁格式』・醍醐天皇の時代の『延喜格式』と並んで”日本三大格式”とされているもので、センターでも頻出の超大事な歴史的固有名詞です。



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【論述対策】嵯峨天皇の諸政策について解説!検非違使とは?その役割や権限の変遷は?【検非違使】



藤原氏北家の発展に尽くした良房が亡くなったのは、応天門の変から7年後の872年のことでした。



そして、良房の死後、その跡を継いだのが良房の養子基経です。



今回の記事の紹介範囲はここから。



今回の記事では、基経のもとで即位した陽成光孝宇多天皇という3人の天皇と基経との関係性に焦点を当てるとともに、



基経に関する歴史的事項として最も有名な「阿衡の紛議」に関して、過程やその歴史的意義についても織り交ぜながら紹介していきます!



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授業ノート(pdf版)【平安時代④ 藤原氏北家の台頭と摂関政治の始まり】



目次―

1.陽成天皇と藤原基経

2.光孝天皇と藤原基経

3.宇多天皇と藤原基経

4.「阿衡の紛議」の発生!その過程は?

5.阿衡の紛議の歴史的意義は?






 

1.陽成天皇と藤原基経

 

清和天皇の治世は、実質的に良房によって支配されていたので、もしかすると天皇自身それに嫌気がさしてしまったのかもしれません。



結局877年、清和天皇は27歳という若さで、自分の息子であった貞明親王(基経の義理の妹である高子と清和天皇の間に生まれた皇子)に位を譲ってしまいます。



こうして即位したのが、陽成天皇でした。



彼が即位したときの年齢は9歳。



父である清和天皇が即位したときと同じ年齢ですね。



父である清和天皇に引き続き、再び幼帝が登場したのでした。



しかし、いくら天皇であるといってもわずか9歳。



現代で言えば小学3年生にあたる年齢ですので、当然のことながらまだ政治を行う能力はなく、叔父であった藤原基経が摂政として代わりに政務を行いました。



良房―清和天皇と同じような関係性で、朝廷政治が進められていったのです。







始めこそ陽成天皇と基経の関係は良好であったようです。



しかしながら清和上皇が崩御した後、陽成天皇が元服を迎えた頃から彼らの関係性は徐々に悪化し、やがて基経は出仕を拒否するようにまでなってしまったといいます。



歴史的に大きな偉業を成し遂げたわけでもなく、教科書に登場することも少ない陽成天皇ですが、実は平安時代きっての暴君として悪名高く、幼少の頃から素行が非常に乱暴であったと言われています。



そして、883年のある時、とんでもない事件が発生します。



宮中で陽成天皇が犯人とみられる殺人事件が発生してしまったのです。



この事件をキッカケに、基経は乱行が絶えないこの陽成天皇を、天皇としての器に欠けるという理由で廃してしまうことに成功したのでした。(表向きには、病の発症による陽成天皇の自発的譲位)



藤原氏北家の権力が、もはや天皇のそれをはるかに上回るようになってしまっていたことが、この事変からもお分かりいただけるかと思われます。



桓武天皇や嵯峨天皇の時代とは、「天皇」という存在の意味合いや在り方が、もはや全く異なったものになってしまっているのです。




 

2.光孝天皇と藤原基経

 


乱行が絶えなかった陽成天皇が廃された後、基経によって新たに立てられたのが光孝天皇でした。



光孝天皇が即位したのは55歳の時です。



平安時代の平均寿命は、貴族であっても男性は33歳・女性は27歳程度であったと言われていますので(貴族といえども栄養失調や伝染病などで、長寿を全うできる人が少なかった)、55歳という年齢の光孝天皇は当時としてかなり高齢であったことがお分かりかと思います。



清和・陽成天皇のときとはうって代わった老帝の登場です。



さて、ここで下の系図をご覧ください。






系図から分かるように、天皇家は文徳清和陽成というふうに続いてきたわけです。



傍系である光孝天皇は、通常であったならばまず天皇にはなり得ない存在でした。



また、光孝天皇は、その親王時代には苦しく不遇な生活を送っていたとも言われています。



(即位してからも昔の苦労を忘れまいとしてか、昔自ら炊事をしていたときにうっかり焦がしてしまった台所の煤をそのままにさせておいたとの逸話が『徒然草』にも残っているそうです。)



まさか自分が天皇になることができるだなんて、夢にも思わなかったのでしょう。



光孝天皇は、そのように不遇であった自分を天皇に立ててくれた基経によほど感謝したのか、在位中には基経に最大限の権限を基経に与え、政治の全権を基経に委ねたと言われています。



こうして、晩年に天皇として人生最高の幸せな老後生活を贈る光孝天皇のもと、基経は事実上の関白として政治を行ったのでした。


また、光孝天皇は、後に基経が次期天皇を選ぶときのために配慮をしたのか、自分の子供たちを全員臣下に下ろしています(これを「臣籍降下」といいます)。



自分の子孫に皇統を継がせる気は無いとあえて表明することで、基経が好きな人物を次期天皇に推薦できるようにしたかったのかもしれません。







余談ですが、光孝天皇はこれまでに見たように不遇な出自でありながらも、諸芸に優れた文化人であったと言われています。



百人一首第十五番に選ばれている、



君がため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ



という歌をご存じの方も多いかもしれません。



これは光孝天皇が親王時代に詠まれた歌だと言われています。



難しい表現や技巧に頼ることなく、情景が素直に読み込まれたこの歌に、謙虚で優しい光孝天皇の人柄の良さが窺えるような気もしますね。




 

3.宇多天皇と藤原基経

 


さて、55歳の高齢であった光孝天皇が崩御されたのは、即位から4年後の58歳のときでした。



親王時代の不遇さを経験した光孝天皇にとって、天皇として過ごした晩年の4年間は、さぞ幸せなものだったことでしょう。


光孝天皇の後継として基経は新たに、臣籍降下していた源定省という人物(光孝天皇の皇子の一人)を再び皇太子に推薦し、そして彼はすぐに即位することとなりました。



宇多天皇の登場です。



一度臣籍降下したものの後に皇族に復帰し天皇となったのは、彼が初めてのことでした。







宇多天皇は即位後すぐに、光孝天皇のときと同様に国政を任せるべく、基経に対して関白としての役割を与える旨の詔勅を発しました



基経は、先例に従って一旦は辞退します。



(古来の日本には、臣下が天皇により高級官僚に任じられるとき、「私には畏れ多いことです・・・」といったん形式的にそれを辞退し、その後に「そんなこと言わずにぜひお願いしますよ」と再び天皇が依頼し、「それならば」とその臣下が着任を受諾するという慣習があったのです。まあ回りくどいっちゃ回りくどいですが、謙虚が美徳とされる日本ならではの慣習ですよね。笑)



しかし、その後再度の以来のために宇多天皇が発した詔勅に書かれていた「阿衡」という単語をめぐって、基経との間にトラブルが発生してしまうのです。



887年阿衡の紛議(阿衡事件)」と呼ばれる事件は、このようにひょんなことから始まってしまったのでした。







 

4.「阿衡の紛議」の発生!その過程は?

 


宇多天皇が基経に送った勅書は、いったい何が問題だったのでしょう。



焦点となったのは、勅書の中に書かれていた次の一文でした。



「宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ」



実際に勅書の起草を担当したのは橘広相(ひろみ)という人物です。



中国殷の時代に活躍した政治家・伊尹(いいん)という者がいたのでしたが、阿衡とはこの伊尹が任じられた官職のことです。



橘広相はこの故事を引用して、「関白」ではなくわざわざ「阿衡」という表現を用いたのですが、これが問題視されたのでした。



当時の日本で摂政・関白のような立場を示す言葉として使われていたという「阿衡」という言葉ですが、このとき文章学者の藤原佐世(式家)という人物が、「阿衡は地位こそ高い役職ですが、具体的な職務を伴う言葉ではない」との解釈を基経に対して示したのです。



「阿衡」とは名ばかりの名誉職に過ぎない――



これを聞いた基経は大いに怒りました。



基経「おのれ宇多天皇め!いいだろう、そこまで言うのなら職務を放棄してやる!俺がいなくなったら国政がどうなるか、思い知らせてやる...!!」



こうして、基経は自分の一切の政務を放棄し、自邸に引きこもるストライキを決行したのでした。







その強大な権力のもとで、国政に大いに絡んでいた基経のボイコットにより、国政は滞り、朝廷の政治は大きく混乱します。



一度詔を発してしまった手前、宇多天皇としてもなかなか後には引けません。



基経の要求に基づいてご機嫌取りのような行動を取れば、基経の立場が天皇である自分よりも実質的に上であることを認めるようなものだからです。



宇多天皇がわざわざ「阿衡」という表現を採用した背景に、基経に嫌がらせをしようとする意図があったのかは分かりませんが、いずれにしても基経と宇多天皇との確執は長い間続いたといいます。



結局、半年にも及ぶ基経のストライキは半年にも及びました。



その結果、ついに根負けしたのは宇多天皇側です。



政務があまりに滞って困り果てた宇多天皇が屈服・譲歩し、前述の詔を撤回&その起草者である橘広相を処罰することで888年に基経のストライキはようやく終焉を迎えました。(日本史史上最も覚えやすい年号ですね笑)



こうして基経は、藤原氏北家の権力の強さを、世に知らしめることに成功したのです。



こののち、基経は891年に亡くなるのですが、死ぬまで権力を握り続けたと言われています。




 

5.阿衡の紛議の歴史的意義は?

 


さて、最後の章では、この事件の歴史的義についてまとめましょう。



言ってみれば、この事件は基経の示威行動であり、結局基経の要求を飲んだ形となった宇多天皇が屈服することで終わりを迎えたのであります。



これにより、藤原氏北家の権力が、日本国最高の存在であるとされる天皇よりも強いものであるということが、改めて世に知らしめされることとなったのです。



そして、この事件を通して、基経は宇多天皇に対して正式に「関白」という地位を認めさせたのでした。



反乱や戦闘もない地味で静かな事件ですが、天皇が実質的に藤原氏北家の傀儡(かいらい:操り人形のこと)であることを決定づけたという点で、この事件は非常に歴史的意義のある大事なものなのです。






またもう一つ、発展的ですが、結果的に橘広相が処罰されたこともポイントとして挙げられます。



この処罰こそが「阿衡事件」が藤原氏北家による他氏排斥運動の一つと捉えられる理由の一つなのですが、実は基経にとって橘広相は、自分ないしは藤原氏北家の脅威となり得る可能性を秘めた人物なのでした。



橘広相は、宇多天皇がまだ即位する前に自分の娘である義子を嫁がせていました。



藤原氏北家の台頭・発展の礎を築いた外戚政策は、橘広相によっても行われていたのです。



しかもこのとき、義子はすでに、後に天皇となる可能性のある男の子を産んでいたといいます。



つまり、橘広相のもとで、次期天皇の外祖父であるという立場を背景に摂政・関白となって政治の実権を握る、摂関政治を行う土壌が形成されようとしていたのです。



藤原氏北家の繁栄にとって、橘広相の存在が大きな障害となったであろうことは想像に難くありません。



基経がここまで意地になった理由も、もしかすると最初から橘広相の排除にあったのかもしれませんね。



余談ですが、実は詔勅の撤回や橘広相の処罰だけでは基経の怒りは収まらず、基経は自らの誤りを認めた宇多天皇に対して、詔勅の実際の起草者である橘広相を流罪にすることを要求しています。



結局基経が菅原道真に諫められることによって橘広相にここまで重い処罰がなされることはありませんでしたが、このエピソードからも、基経は将来的に自分たちの脅威となり得る可能性を秘めた橘氏を徹底的に排除したかったのではないかと読み取れますね。



(なお、橘広相はこの事件落着後の1年後に没し、結果的に橘氏の外戚政策は失敗に終わっています。)




 
いかがでしたか?


今回は藤原基経の時代の政治史について解説しました。



「阿衡の紛議(阿衡事件)」が、藤原氏北家の権力が天皇家のそれを優越していることを決定づけたという点で、非常に歴史的意義のあるものであったということがお分かりいただけたかと思います。



891年に基経が没した後、宇多天皇は一連の基経の行動によっぽど懲りたのか、摂政・関白を設置することなく自ら親政を展開するようになります。



宇多天皇のもと、いわゆる「寛平の治」と呼ばれる天皇親政が行われたのでした。



平安時代3つめとなる時期区分、【三天皇による治世の時期―宇多・醍醐・村上天皇による天皇親政―】の時代の到来でございます。




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